江藤慎一は前代未聞の悪条件のなか史上初めてセ・パ両リーグの首位打者を獲得。試合後は深夜まで六法全書を広げる日々だった (2ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko
  • photo by 産経新聞社

 ロッテ2年目のシーズンが開幕してもこの裁判は続いていった。夜半の2時、3時まで六法全書を開き、朝は7時には起床して弁護士事務所に行って代理人を待ち、打ち合わせと疑問点の解決。それが終わると、球場に行って特打を繰り返し、ナイターに出場する。そしてゲームが終わると、待ち受けている債権者たちに対応し、課題を持ち帰って、再び机に向かう。ときには東京から名古屋地裁に向かうこともあった。

 驚くべきことに江藤はこれらのルーティンを、昭和46年の初頭から翌47年3月までの約1年間続け、その上で、パ・リーグの首位打者を獲得したのである。「司法試験の勉強をしながら、野球でもてっぺんを獲ったようなものだった」と当時の担当弁護士は讃えたが、史上初のセ・パ両リーグの首位打者獲得は、野球に集中するどころか、日常的に神経をすり減らす債権者との会議、そして判例を自ら調べながら裁判に臨むという前代未聞の悪条件のなかで実現されたのである。

 昭和46年、連覇を狙ったロッテは、阪急とのデッドヒートを展開していた。有藤には忘れられない試合がある。7月23日に西宮球場で行なわれた阪急対ロッテ10回戦である。「首位争いで2万人が入っていました。当時のパ・リーグではすごい数のお客さんが入って、阪急が足立(光弘)さん、ロッテが成田(文男)の先発で始まった試合ですよ。スコアも覚えています。1対4でうちが負けていて7回の先頭バッターが江藤さんだったんです。2ストライク、1ボールのあとの4球目でした」

 江藤のハーフスイングを、一度はボールと判定した主審の砂川恵玄が、捕手の岡村浩二の主張によって空振りと判定し直したのである。江藤とロッテ側は「断固として振っていない」と抗議を続けた。

「江藤さんは見送るときに右肩が出ない。この時もそうだったから、自信があったんでしょうね。『絶対に俺は振っていない』と言って、引き下がらなかったんですよ」

主審のジャッジに抗議する江藤慎一(右から2番目)主審のジャッジに抗議する江藤慎一(右から2番目)この記事に関連する写真を見る
 この時、ロッテ側の最高責任者として球場に来ていたのが、永田雅一からオーナーを引き継いだ中村長芳であった。旧制山口中学出身の中村は同郷の岸信介の総理大臣秘書官を務めていた人物で、2年前からロッテ球団の副社長に就いていた。

 なぜ、政界の中枢にいた人物が球界、それもロッテにきていたのか? そこには、日米間の貿易摩擦が起因していた。1968年、日米間の通商会議で日本は、米国からチューインガムの自由化を突きつけられていた。日本市場を狙っていたのは、シカゴカブスのオーナー企業でもある世界最大のガムメーカー、ウィリアムリグレージュニアカンパニーで、ロッテにとっては、大きな脅威であった。

 ロッテグループの創業者である重光武雄は、元総理である岸に国内企業の保護のために自由化の動きを鈍らせられないか、働きかけた。中村は、そこで岸の意向を帯びて、関係省庁を往還し、このリグレーの上陸を2年遅らせることに成功させた人物であった。これでロッテとの大きな縁ができていた。

 江藤に対する判定に納得しない濃人渉監督は、選手を引き上げさせた。「このまま再開に応じなければ、試合放棄と見なす」という審判団の再開要請に30分経っても応じなかった。

 プロ野球に精通している球団経営者ならば、試合放棄にどれだけ大きなリスクがあるか、熟知しており、現場指揮官を説得する。しかし、剛腕の元官吏からすれば、納得できなければ徹底的に抗戦すればよいという考えがある。「それなら止めてしまえ!」とむしろ後押しを告げて、その結果、ついにロッテは放棄試合を宣告され、0対9で敗戦を宣告された。

 比較的おとなしいと言われていた阪急ファンもこのロッテの態度には、怒りを抑えきれず、グラウンドになだれ込んで来た。「我々も宿舎に戻ろうとするのですが、バスは壊されるわ、バットは取られるわ、散々な目に遭いましたよ」(有藤)

 さらには、2万人を収容した試合のボイコットということで、約1千万円の違約金を請求された。以降、日本のプロ野球界において放棄試合は起きていない。

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