岡田彰布はコーチのひと言に優勝したい気持ちは消え失せた。「もうあんた、パチョレックとやったらええやん」
1992年の猛虎伝〜阪神タイガース"史上最驚"の2位
証言者:岡田彰布(後編)
前編:岡田彰布が「屈辱やった」と語る突然の代打宣告はこちら>>
1992年は開幕5番で始動した阪神の岡田彰布だったが、右足のケガの影響で打撃不振。チャンスで代打を出される屈辱を味わわされ、スタメンを外され、やる気を失っていた。それでも、チームが優勝争いを続けるなかで気持ちを切り替えると、10月、出番が回ってきた。
1日の中日戦。7回二死一、三塁から代打で出た岡田が同点の右前打。チームは敗れるも存在感を示すと、翌2日、横浜大洋(現・DeNA)戦、一塁のパチョレックが右脇腹痛で退き、4回から岡田が一塁に入った。すると、1対2で迎えた9回表二死一、二塁の場面。岡田の中前打で同点とし、続く八木裕の遊撃内野安打で逆転。最後は中西清起が抑えて勝利した。
翌3日の横浜大洋戦、岡田は4番・一塁で先発出場。2回に開幕戦以来の2号ソロが飛び出して阪神が先制。6対0での勝利に貢献し、翌4日の同戦も4番を打ち、続く6日、神宮球場でのヤクルト戦は3番でスタメン。残り4試合となって、優勝経験のあるベテランの打棒が期待されるところだが、ベンチの考えは違ったという。当時の状況を岡田に聞く。
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外国人を優遇する首脳陣に疑問符
「7日の試合前か。神宮の室内でコーチの石井晶さんが来て『パチョレックが治った。先発外れてくれ』って言うんよ」
パチョレックの症状は「軽い肉離れに近い状態」と明かされていた。病院に行くこともなく、チームに同行したまま治療を続けていた。優勝に向けてはもう1敗もできない時である。ベンチとしては、打率3割超えで21本塁打の4番を使えるなら使いたいところだ。岡田としても、パチョレックが完治したのなら、それに関してどうこう言うつもりはなかった。
ところが、石井チーフコーチは「治った」と言ったそばから、つけ加えた。「パチョレックが先発でいって、悪かったらあとでまた代わってくれ」と。聞いた瞬間、岡田は憤慨して言った。
「なんやねん、それ。おかしいやろ! そんなんで優勝できるか。あんた、優勝したくないんか?」
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