又吉克樹「てめえら、独立上がりの球を打てるのかよ」。独立リーグ出身としてのプライドと恩返しの思い
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連載『なんで私がプロ野球選手に?』
第8回 又吉克樹・後編
異色の経歴を辿った野球人にスポットを当てるシリーズ『なんで、私がプロ野球選手に!?』。第8回後編は、最速117キロだった高校時代から一転、球速が30キロ以上も上がる驚異の5年間を振り返る。
独立リーグ出身者初のFA権行使で中日からソフトバンクに移籍した又吉克樹この記事に関連する写真を見る
運命を決定づける出会い
「サイドスローがあったから、僕は人生が変わった」
又吉克樹はそう言いきる。運命を決定づける出会いがあったのは、大学入学間もない頃だった。
春のリーグ戦中の5月。環太平洋大学監督の田村忠義は「サイドで放れるヤツおるか?」と部員たちに聞いて回った。戦力としてあてにしていたサイドスローの投手が故障し、欠員が出たのだ。
手を挙げたのは、入学して間もない又吉だった。田村は「やってみいや」と促し、投球練習を見守った。光るものは感じたが、「まだ大事な試合で使えるレベルやないな」という評価を下した。
田村は現役時代、社会人野球の日本鋼管福山で活躍したアンダースローだった。1974年には太平洋(現・西武)からドラフト1位、翌1975年にはヤクルトからドラフト2位で指名を受けながら、拒否してアマチュアでプレーし続けた。そんな田村の目に、又吉はこのように映った。
「右の腰は横に回っているのに腕はスリークオーター気味で、下半身と上半身の動きが噛み合ってない。右腕を少し下げてスイングできれば、軸がブレずにうまく回るはずや」
田村からのアドバイスを受け、又吉はサイドスローとしての基礎を一から固めていった。田村は「ボールを3本の指(親指、人差し指、中指)で潰せ」と指示した。言われたとおりにやってみると、又吉は自分のボールに大きな変化を感じるようになった。
「今まで一生懸命に投げていた40メートルの距離でも、えらい軽く腕が抜けるようになって。腕はポーンと抜けるのに、ボールはヒューッと伸びて落ちてこない感じでした」
球速がみるみる上がっていき、やがて又吉は公式戦でも起用されるようになる。田村は又吉の潜在能力に目を見張るようになる。
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