星野仙一からの通達に「なぜ自分が......」。山本昌が語る転機と新ボール取得秘話 (2ページ目)

  • 浜田哲男●取材・文 text by Hamada Tetsuo
  • Photo by Sankei Visual

【アイク生原に教えられたもの】

――ドジャースのキャンプを経験できる、といったモチベーションの高まりもなかったんですね。

山本 普段はあんまり下がらないほうなんですけど、その時ばかりはモチベーションはまったく上がらなかったです。キャンプ地からみんなが日本に帰り、その翌日から本格的にマイナーリーグのキャンプに参加しましたが、アメリカのキャンプは全体練習が午前中で終わってしまうんです。なので、最初の頃は部屋に帰って"ふて寝"していました。

――当時、日本の各チームの2軍は年間80試合程度でしたが、アメリカは試合数がその2倍ぐらいあったと思います。登板機会も増えますし、経験を積む上ではよかった部分もありましたか?

山本 4月~8月で150試合を行なうリーグに派遣されたんですが、それがよかったですね。チームの人数は25人で、ピッチャーも11人しかおらず、「勝ち試合で投げさせちゃダメだろ......」という選手もいました。ただ、それでも人が足りないんで投げるしかないんです。

 僕は150イニング以上投げましたね。当時の中日の2軍にはピッチャーが20人弱いて、試合では1軍昇格に近いピッチャーが優先で投げていました。なので、僕が日本で4年かけて投げたイニングの倍ぐらいを、アメリカでの1年で投げたんじゃないかと思います。

 ナイターに慣れさせてもらえたこともよかったですね。日本の2軍はいつもデーゲームなので、ナイターがほとんど経験できません。4試合だけナイターで投げたんですが、キャッチャーのサインは見にくいし、小さく見えるし......。それが、アメリカで慣れてからはハッキリ見えるようになりました。

――山本さんの代名詞である「スクリューボール」も、その時に覚えたと聞きます。

山本 アイク生原(昭宏)さん(当時、ドジャースのオーナー補佐兼国際担当)との出会いがきっかけです。「新しいボールを覚えなさい」と、いろいろなピッチャーのところに連れていってくれました。当時ドジャースにいた(フェルナンド・)バレンズエラにスクリューボールの投げ方を聞き、(ドン・)ドライスデールという野球殿堂入りのピッチャーにはカーブのことを聞きました。

 結局1カ月半くらいさまざまなボールを試して、その過程でスクリューボールをマスターしたのですが、感触がよかったんです。投げたらすぐに変化して、コントロールもうまくできたのですぐに試合で使いました。スクリューボールを覚えたあとは、敗戦処理だった僕が先発ローテーションにも入れましたし、そこが転機になりましたね。

 それだけじゃなく、アイクさんには野球をする上での基本を、メジャーの名選手たちを引き合いに出しながら教えていただきました。5年目というタイミングで、そのチャンスをくれた星野さんに感謝ですね。

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