星野仙一からの通達に「なぜ自分が......」。山本昌が語る転機と新ボール取得秘話 (4ページ目)

  • 浜田哲男●取材・文 text by Hamada Tetsuo
  • Photo by Sankei Visual

 真市を先発させたのは考えてやったことなのか、偶然なのかわかりません。ただ、立浪の件にしてもそうですが、見る目があったんでしょうね。「立浪ならいける」「真市ならいける」と。立浪は新人王を獲りましたけど、高卒のルーキーが新人王なんてそうそうありません。そういう"勝負強さ"を持っていた監督でした。コーチとの信頼関係もあったと思います。

 僕はアメリカ留学という形でチームから離れていたので、コーチの代わりにアイクさんが僕の状況を随時報告してくれていました。僕が最多勝争いをしている、防御率がトップだ、日本に帰ったら中継ぎぐらいから使えるかもよ、といった話を、星野さんは「うそつけ!」なんて言いながら聞いていたみたいです(笑)。でも、あとで聞いた話ですが、僕が帰国して1軍でピッチング練習をしているのを星野さんが見た時に「なんでこんなに変わるんだ」と驚いていたらしいです。

――山本さんは32年間をプロで過ごしましたが、アメリカ留学が野球人生のターニングポイントと言っていいでしょうか?

山本 間違いないです。逆に、ここしかない。それまでも練習はしっかりやるほうでしたが、やり方がわからなかったですからね。アメリカでスクリューボールを覚えて勝てるようになってから、自分でピッチングを研究するようにもなりました。

 若い頃、牛島(和彦)さんにピッチングの指導をしていただいていたんですが、その時は理解することができなくて。だけど、勝ち始めてから「そういうことだったのか」とわかるようになりました。「理解力」というのは、実践で投げていかないと向上しないことを実感しましたね。今日の僕があるのも、すべてアメリカ留学を経験できたおかげです。あらためて、星野さんには感謝してもしきれません。

(後編:「9」厳しい星野仙一が見せる「1」の優しさ>>)

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