王貞治が「特別な存在だった」と讃える男。江藤慎一は史上初めて両リーグで首位打者となった (2ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko
  • photo by 産経新聞社

 日本球界で史上初の3000本安打を達成した張本(勲)が江藤の技術を解説してくれた。

「日本のプロ野球において右打者で右投手の外角スライダーを左中間に引っ張れたのは、慎ちゃんだけだ。今でもいないな。強打者で言えば、身体ごとボールに向かっていくような岡本(和真)のようなタイプもいるが、慎ちゃんはそうじゃない。球を捉えに行くけども下半身は残っている。踏み込んで半身に構えておるから、アウトコースが甘くなる。だから外に逃げる球でもバットの芯に当たる。それを右手を返さないでヘッドを左中間に持っていくんだ。

 三冠王を3回獲った落合(博満)も外のボールに強かったけど、落合は引っ張らずに流すからね。バットをしならせて打つスラッガーは珍しくないが、慎ちゃんみたいにヘッドを持っていくバッターはおらんわな。それこそ彼は自分の人生をかけて打ちにいっとるけど、下半身は残っとる。だからあれだけの成績を残したんですよ」

──人生をかけて打ちに行くが、下半身の粘りで重心は残している。技術解説の最後に江藤の半生について象徴的なワードを張本は語った。

 江藤は中日からロッテ(オリオンズ)に移籍後、パ・リーグでも首位打者となり、史上初の両リーグでの首位打者となった。

 その順応の速さはデータ野球全盛の現在では想像しづらいが、江藤の現役時代を知る大島康徳氏(故人)は「もうそんなセの野球とかパの投手とかまったく関係のない人でしたよ。打球の特徴がまさに弾丸ライナーでショートが取れると思ってジャンプしたボールが加速してそのままレフトスタンドに突き刺さったのを私は何度もベンチから見ました」

 そしてまた、不世出の大打者は非常に神経の細やかな人格者であったと生前を知る者は言う。再び王会長。

「名球会においても稲尾(和久)さんと江藤さんは非常に筋のとおった人でしたからね」

 巷間で言われる、「仏のサイちゃん」稲尾に対して江藤のニックネームは「闘将」。同じ九州生まれであるにも関わらず、対照的なイメージであったふたりが、並べて称されるのは、野球ファンは意外に思うかもしれない。

 しかし、中日の球団職員(トレーナー、マネージャー、広報、通訳、渉外等)を57年に渡って務めあげた足木敏郎は、主力選手がともすれば尊大な態度を取りがちな裏方に対しても礼儀を忘れず、折り目正しい態度を崩さない江藤に対して感嘆していた。

「野球選手に欠落しがちな社会常識もしっかり持ち合わせた人でした。マネージャーという立場上、江藤からよく電話がかかってきましたが、応対は実にていねいでした。『もしもし、足木さんのお宅でしょうか。江藤でございます」と名乗ったあと、必ず「いつもお世話になっております』と続けるのです」

 他の選手は名乗ると同時に要件を話し出すのだが、江藤だけはベテランになっても年俸が上がっても御礼の言葉が必ずついたという。あの容姿や言動からは想像できない繊細さや誠実を併せ持っており、引退後も試合のチケットなどを手配すると必ず毛筆で書いた達筆の礼状が送られてきた。しかもそれらは書の作品の域に達していたという。

 その器用さは、張本も太鼓判を押す。

「豪快に見えて繊細でね。メキシコのラテンソングで『ラ・マラゲーニャ』というスペイン語の曲があるんだよ。慎ちゃんはこれが得意でねえ。声はいい、ギターはうまい。そして物まねもうまかった。大河内傳次郎の丹下左膳ね。『姓は丹下、名は左膳』、宴席が最高に盛り上がったよ」

 ONに比肩する実力の持ち主。選手のみならず裏方にも慕われた人柄。書や楽器をたしなむ幅の広さ。しかし、その半生は逆風の連続だった。

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