なぜ巨人に移籍すると輝けないのか? 経験者が語る「ジャイアンツでプレーすることの重み」 (2ページ目)
なぜ、中尾氏は巨人に加入してすぐに活躍できたのだろうか。
「僕はもともとプレッシャーが好きで、楽しんでいた部分はありました。だから、それなりに活躍できたと思う(笑)。外様という部分では、タツがいたことでチームにスッと入っていけました。すごく感謝しています」
中尾氏が「タツ」と呼ぶのは、現在巨人を率いる原辰徳監督である。中尾氏の2歳下で、大学時代から親交があった。そこで1988年オフに巨人へのトレードが決まると、「中尾さん、一緒に自主トレをやろう」と誘いを受けたことが大きかったと振り返る。
「当時のジャイアンツには簑田浩二さん、有田修三さん、中畑清さんという年上がいたけど、選手のまとめ役は原でした。本当に若大将という感じで、チームワークがすごくよかった。年上の3人は別格という感じで、タツと篠塚(和典)を中心にチームは回っていました」
新天地で馴染みやすい環境があったことに加え、当時の中尾氏には特別なモチベーションがあった。外野手から捕手に復帰できたことだ。
もともとキャッチャーとして中日に入団した中尾氏が外野に回ることになった理由は、決して前向きなものではない。きっかけは1987年、右腕投手の鈴木孝政が先発した試合での出来事だった。
その日の鈴木は立ち上がりからストレートが走り、3回まで無安打、与四球1と抜群の立ち上がりを見せた。中尾氏が手応えを感じながらベンチに帰って腰を下ろすと、耳元から予期せぬ指示が飛んできた。
「今日は真っすぐがいいけど、3回までは真っすぐが多すぎた。4回から変化球主体でいこう」
ピッチングコーチの言うとおりにすると、4回、荒井幸雄にライトへホームランを打たれた。チェンジアップが内角寄りに甘く入り、見事に仕留められた。それでも後続を抑えてベンチに戻った刹那、そのコーチからまさかの言葉を浴びせられる。
「おまえ、真っすぐが走っているのに、なんで変化球をいっているんだよ!」
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