野村克也が待ちわびた1541日ぶりの復帰。荒木大輔の「勝負運」が苦境のヤクルトをリーグ優勝に導いた (2ページ目)

  • 長谷川晶一●取材・文 text by Hasegawa Shoichi
  • photo by Sankei Visual

【野村克也さんも荒木の度胸を評価していた】

――関根監督時代にひじ痛を発症。ジョーブ博士の執刀を受けてリハビリに励んでいたものの、復帰を急いでまた故障して再手術。さらに椎間板ヘルニアも発症して長いリハビリ生活を送りました。その頃の荒木さんはどんな様子でしたか?

八重樫 本当に暗い顔をしていました。そして、イライラしているのがよくわかりましたね。ただ、ある時期から吹っ切れたのかな? 「早く投げたい」という思いから、「しっかり治そう」と切り替えてからは、少しずつ明るくなっていきましたね。

――結局、荒木さんが復帰したのは野村克也監督時代の1992年秋、リーグ優勝争いの渦中でのことでした。

八重樫 野村さんも待ちに待っていたと思いますよ。大輔のように「打者に向かっていく投手」が大好きですから。野村さんはいつも「逃げるな」って口にしていましたからね。アウトコースに要求する時も、「あくまでも、次にインコースで勝負するための布石なんだ」と言っていて、単に弱気で投げるアウトコースのサインに対しては「逃げるな」と口を酸っぱくして言っていました。

 また、のちに野村さん自身も言っていたけど、大輔の持つ「勝負運」のようなものを評価していたようですね。

――荒木さんは1992年9月24日の広島戦で1541日ぶりの一軍復帰を果たしました。ブルペンからマウンドに向かう時、あの日の神宮の盛り上がりは最高潮でしたよね。あれだけ球場中が盛り上がったのは、個人的な体感としては、池山隆寛さんの引退試合ぐらいだったような気がします。

八重樫 あの日の神宮の盛り上がり方は異常でしたよね。あの年、ヤクルトは14年ぶりのセ・リーグ優勝を果たすけど、大輔の影響がとても大きかったと思います。当時、チームは連敗もあって苦しい状況だったのが、大輔の復帰からムードが一気に変わりましたから。野村さんは勝負勘だけじゃなく、マウンド上でのたたずまいも好きだったんだと思いますよ。

――「1992年の荒木大輔」というのは、ファンにとっては生涯忘れられないカッコよさと存在感でした。

八重樫 大輔がマウンドに立つと、実際よりもひと回りもふた回りも大きく見えるんです。それはやっぱり、大舞台を何度も経験した男ならではの存在感だったと思います。オーラみたいなものがあったし、その気迫はボールにも乗り移っていましたね。

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