2021.08.12

エースの200勝達成を目前にリリーフ失敗。ヤクルトの「サッシー」はプレッシャーに苦しんだ

  • 長谷川晶一●取材・文 text by Hasegawa Shoichi
  • photo by Sankei Visual

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【速球本格派から技巧派にモデルチェンジ】

――さて、今回も酒井圭一さんについて伺います。前回は、プロ3年目に打球が顔面を直撃し、以降は本来の力を取り戻せなかったというお話を聞きました。鳴り物入りで入団した酒井さんのプロ初勝利は、4年目の1980(昭和55)年のことでしたね。

八重樫 前回も言ったけど、打球直撃の前と後では、少しずつ感覚がズレてしまっていて、本来の持ち味だった低めの伸びのあるストレートが投げられなくなったのは事実ですね。実際に起用法も、先発から、短いイニングを任される中継ぎに変わっていきました。

1990年に現役を引退した酒井圭一1990年に現役を引退した酒井圭一 この記事に関連する写真を見る ――入団当時はストレートと2種類のカーブだけだったと聞きました。その後、変化球の球種は増えたんですか?

八重樫 中継ぎを任されるようになってからはスライダー、フォーク、シンカー系のボールも投げていましたね。この頃から連打が減ってきて抑える機会が増えてきた。それで、1980年にプロ初勝利をマークしたという感じです。この頃には「速球本格派」から、完全に「技巧派」にモデルチェンジしましたね。

――確かに1980年には4度の先発登板がありますが、それ以降は引退する1990(平成2)年まで、一度も先発登板はないですね。

八重樫 右バッターは抑えるんだけど、左バッターを苦にしていたんですよ。左バッターへの決め球がなくて、追い込む前に打たれてしまったんです。それに、打球が直撃したことによって、視力が悪化したのかコントロールも悪くなってきた。先発を任せるには、ちょっと厳しかったのは事実でしたね。

【松岡弘の200勝に向けてのプレッシャー】

――この頃、エースの松岡弘さんが200勝を目指して力投を続けていました。でも、勝ち投手の権利を持ったまま降板したのに、酒井さんが打たれて松岡さんの白星を消してしまった場面をよく覚えています。

八重樫 僕もよく覚えています。あの頃は酒井に限らず、若手リリーフ投手たちはみんな「松岡さんのために」という思いでプレッシャーを感じていましたから。でも、そのプレッシャーが原因でコントロールが乱れて、結局は失点してしまう。そんなケースが本当によくありましたよ(苦笑)。