夢も希望もなかった17歳の帰宅部員は、4年後に球界を代表するスピードスターとなった (2ページ目)

  • 菊地高弘●文 text by Kikuchi Takahiro
  • photo by Sankei Visual

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 だが、東松山市立北中の軟式野球部では、和田は一転してケガに悩まされた。中学でもチームメイトだった久保は、2年時のこんな光景を記憶している。

「和田がファーストベースを駆け抜けた時に、急に倒れ込んだんです。ベースを踏んだ時の衝撃で股関節を痛めたらしくて。体の線が細い分、足が速すぎて股関節にすごく負担がくると聞いたことがありました」

 じつは1年間で2回目となる股関節の故障だった。最初は左、次は右の股関節を痛め、長らくプレーできない時期が続いた。

 そんな折、和田は久保とともに地区選抜・比企フェニックスに選出される。周囲のレベルを目の当たりにして、どんどん自信を失っていった。

「選抜に選ばれた時に2回目の股関節のケガをしたんですけど、練習を見学していてもみんな自分よりうまくて。ケガから復帰したあともボールが全然見えなかったし、ケガが怖くて全力で走れなくて。すべての部分で劣っていると感じました」

 中学3年になると、久保は和田から「高校では野球をやらないから」と打ち明けられた。「もったいない」と思いつつ、陸上部に入るとも聞いて納得したという。

「身体能力がとにかく高くて、体にバネがありましたから。足の速さは中学でも一番くらいのレベルで、よく陸上部に呼ばれていました。高校で本格的に陸上をすれば、上のほうにいくだろうなと思いました」

 埼玉県立小川高校に進学した和田は、陸上部に入部する。新入部員はさまざまな種目を試し、適性をチェックされる。その末に和田は「走り幅跳びを専門にしてみるか?」と提案された。

 じつはこの時点で、和田は自分の走力に特別な自信がなかった。

「中学では自分と同じくらいの速さの人も何人かいたし、ずば抜けてはいなかったので」

 陸上部への入部は、和田にとって大きな意味を持った。それまでの走り方を見直したところ、スピードが一気に増したと和田は言う。

「もともと手を横に振って、アゴの上がった不細工な走り方をしていました。それをきれいな走り方に直したら、足が一段と速くなったと感じました」

 走り幅跳びでは6メートル45の自己ベストを記録し、県大会では15位とまずまずの結果を残していた。だが、和田が陸上に深くのめり込むことはなかった。

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