八重樫幸雄「コンニャロー、新人のくせに」。会田照夫の第一印象は最悪だった (4ページ目)

  • 長谷川晶一●取材・文 text by Hasegawa Shoichi
  • photo by Sankei Visual

―― 一方で、1979、80年にはまったく勝てなくなりました。でも、現役最終年となる1980年にはファームで最多勝を獲得しています。これは何か理由があったんですか?

八重樫 確か、右手が血行障害になって力が入らなくなったんだと思います。リリースの瞬間に指先を切るんだけど力が入らない。実際に、ボールには全盛時のキレがなくなっていましたね。ファームで最多勝を獲得したのは、一軍では通用しなくても、まだまだファームでは会田さんのボールが通用していたからだと思います。あの時の二軍監督は小森光生さんだったと思うけど、優勝争いをしていたので多投したんじゃないのかな?

――1980年限りで現役を引退。その後のおつき合いはあったんですか?

八重樫 OB会のシーズンシートがあるんで、神宮球場に何度か観戦に来た時にお会いしたり、OB会であいさつしたり、そういう関係でした。病気のことは聞いていたけど、まさか急に亡くなるとは思ってもいなかったよ。晩年は車椅子に乗っていて、移動も困難だったようです。本人は「OB会に出たい」と言っていたようだけど、実現はしなかった。もう一度、ゆっくり話をしたかったな。個性的なピッチャーでしたね。ご冥福をお祈りします。

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