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名球会よりも難しい「永久欠番」。
各球団にどんな選手がいるのか (2ページ目)

  • 田口元義●文 text by Taguchi Genki
  • photo by Masuda Yuichi

■中日
「10」服部受弘(1960年/112勝65敗、447安打、33本塁打)
「15」西沢道夫(1959年/1717安打、212本塁打、60勝65敗)

■広島
「3」衣笠祥雄(1987年/2543安打、504本塁打)
「8」山本浩二(1986年/2339安打、536本塁打)
「15」黒田博樹(2016年/203勝184敗)※日米通算記録

■西武
「24」稲尾和久(2012年/276勝137敗)※前身の西鉄時代の背番号

■楽天
「10」楽天ファン(2004年)
「77」星野仙一(2018年/1181勝1043敗53分)※監督通算

■日本ハム
「100」大社義規(2009年)

■近鉄
「1」鈴木啓示(1985年/317勝238敗)※オリックスと合併した2004年に解除

 巨人の黒沢と沢村のようにチームの創成期に活躍した名選手や、通算2000安打、200勝の"名球会"選手が大半を占める。また、1985年にチームを21年ぶりの日本一へと導いた阪神の吉田義男や楽天の星野のように、監督としての実績も評価された例もある。

 変わり種でいえば、日本ハムの初代オーナーである大社義規(おおこそ・よしのり)だ。1981年のリーグ優勝の際に着用していた背番号が、2009年に野球殿堂入りを称え永久欠番となった。楽天の「10」が誕生したのは、球団が創設した2004年。9人のフィールドプレーヤーに次ぐ「10番目の選手」としてファンの背番号と認定する、球団の粋な計らいである。

 永久欠番が実績や貢献度が重要なファクターであることは間違いない。だからこそ疑問も残る。ではなぜ「これほどまでに少ないのだろうか?」と。

 NPBのみの通算成績でも、2000安打は50人(現役選手を除く)、200勝は24人、250セーブは3人もいるが、永久欠番になったのはごくわずかである。

 たとえば、南海(現・ソフトバンク)の黄金時代を支え、プレーイングマネージャーとしても活躍した野村克也の「19」や、プロ野球歴代2位の350勝をマークした阪急(現・オリックス)の米田哲也の「18」は永久欠番になることはなかった。

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