松井秀喜から「ありがとう」。五十嵐亮太は全球ストレートを投じた (2ページ目)

  • 長谷川晶一●取材・文 text by Hasegawa Shoichi
  • photo by Sankei Visual

【背番号11を固辞して、53番にこだわった理由】

 そのインタビューがあった翌2001年には、早くも「球団の顔」になった。公式ファンクラブのイメージキャラクターとして、「速球な応援よろしく!」のキャッチフレーズとともに、五十嵐自らがファンクラブをプロデュース。さらに夏場には「キャッチフレーズ大募集」と銘打たれ、球団は五十嵐のニックネームを大々的に募っている。その結果、「勝利の女神が惚れた男」に決まった。

 あの頃、五十嵐亮太は輝いていた。マウンド上で躍動する姿と、グラウンド外で見せる天性のスター性。その両輪が見事に相まった、久々に現れたヤクルトのスターだった。

 五十嵐がブレイクした2000年オフには忘れられない出来事があった。この年は56試合に登板し、11勝4敗1セーブ。75回1/3イニングを投げて、90奪三振という堂々たる成績を残した。この時、五十嵐は球団から「背番号11」を提示されている。「53」という重い番号から、スター選手が背負う「11」へ。それは球団公認のスターの証でもあった。

 ヤクルトの背番号11といえば、1983(昭和58)年から1995(平成7)年まで、"甲子園のスター"だった荒木大輔がつけていた番号だった。のちに由規に、そして現在では奥川恭伸に与えられているように、"ヤクルトのスター投手"が背負う由緒正しい番号だった。

 しかし、五十嵐は球団からの打診を辞退している。その理由が「ゴミ(53)とからかわれたこの番号を、自分が輝かせたい」というものだった。この報道を目にしたとき、「気骨のある男だ」と思った。その端正なルックスばかり注目されがちだったが、五十嵐の魅力は、その反骨心、気骨にあるのだと再認識した瞬間だった。

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