田澤純一が語るいきなりメジャーの12年間「自信があったわけではなかった」 (2ページ目)

  • 白鳥純一●取材・文 text by Shiratori Junichi

 前例のない田澤の挑戦は、当時の日本野球界に大きな衝撃を与えた。

 NPBは、「ドラフトの指名を拒否して海外のプロ球団と契約した選手は、海外球団を退団した後の一定期間(大卒・社会人は2年間、高卒は3年間)はNPB所属球団と契約できない」とするルールを新たに制定。田澤のメジャーリーグ挑戦表明がきっかけだったことから、通称「田澤ルール」と呼ばれ、広く知られるようになった。

「当初は日本のプロに進むつもりだった」という田澤が、メジャーリーグ入りを考えるきっかけになったのは、社会人3年目に日本代表として出場したIBAFワールドカップ(2007年11月・台湾)で海外の打者と対戦したことだった。

「(メジャーリーグに挑戦することで)自分自身が成長できると思ったんです。活躍できる自信があって渡米したわけではありませんでした」

 日本球界でドラフト1位指名が確実視されているなかで、「茨の道」のようにも見えるメジャーリーグへの挑戦も、「自分の選んだ道に後悔はなかった」と振り返る。2008年12月にボストン・レッドソックスと契約を結び、渡米後は異国の文化を柔軟に受け入れながらステップアップ。そして翌年8月、1年目にしてデビューを果たした。

 初登板は、レッドソックスの宿命のライバルであるニューヨーク・ヤンキース戦。敵地のヤンキースタジアムで、0-0のまま迎えた延長14回裏だった。嵐のようなブーイングを背にしてマウンドに上がった田澤は、「小学生の時からテレビで見ていたバッター」と話す松井秀喜と対戦。センターフライに打ち取ったものの、次のイニングでアレックス・ロドリゲスにサヨナラ本塁打を打たれ、敗戦投手に。ほろ苦いデビューだった。

「あらためて振り返ると、なかなかできない経験をしたと思います。(敗戦は)不名誉なことですけど、名前は残せたんじゃないですか(笑)。試合後には、キャッチャーが『変化球を要求した俺が悪いから気にするな』と言ってくれましたし、いい勉強になりました」

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