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2005年伝説の日本一のロッテは
「今では当たり前」の野球の先駆者だった (4ページ目)

  • 栗田シメイ●文 text by Kurita Shimei
  • photo by Sankei Visual

小林 初戦は負けたけど、そこから3連勝できたのは大きかった。当時のプレーオフのルールでは、1位のチームに4.5ゲーム差以上離されると1勝のアドバンテージが与えられる。

藤田 とにかく、絶対に4.5ゲーム差以上離されたくなかったので、ここが正念場だと思っていた。

小林 あそこで3つ勝てたことで、プレーオフでもソフトバンクを恐れる必要がないと、チームに一体感が生まれた。「普通にやればオレたちが負けるわけはない」と。

藤田 自信満々でプレーオフに臨んだよな。

小林 第1ステージで西武に連勝して、第2ステージでも2連勝してノリノリ状態。絶対優勝できると思っていて、そのとおりに事が運んでいた。ただ、そこから連敗してタイになった時に、「ここからは締めてかからないと」という雰囲気になった。イケイケムードだったのが、タイになったことでチームに"喝"が入った。アウェーで、勢いはソフトバンクにあるはずなのに、5戦目は負けるとはいっさい思っていなかった。それほど、あの年は"強いロッテ"だったし、自信を持っていた。

藤田 あれほどすべてが揃っていたチームは、自分の野球人生でほかになかった。プレーオフはスコア的には接戦だったけど、余裕を持ちながら戦えた。日本シリーズは、プレーオフ以上に余裕があったよな。

小林 阪神もうちと似たタイプのチームだったけど、打線も投手陣もうちに分があると見ていた。

藤田 ちょうどあの年から交流戦がスタートしたんだけど、セ・リーグの実力はなんとなくわかっていた。少なくとも、ガッツや松中のようにインコースの球を強振してホームランにできる打者は、セ・リーグにはほとんどいなかった。普段からパ・リーグの強打者相手に投げている自分が打たれるわけにはいかないと。だから、阪神との日本シリーズは球威さえあれば、多少コースは甘くなっても抑えられると思って投げていた。

小林 自分は最終回を任される重責もあって、緊張していました。それでも、日本シリーズでは勢いのあるボールなら打たれないだろうと、割り切っていましたね。結果的に4連勝で、本拠地での胴上げは果たせなかったけど、日本一になれた。

藤田 あの優勝で本当に千葉のファンの温かさを感じた。

小林 30年以上も優勝から遠ざかっていたわけで、シーズン中から期待は伝わっていたし、リリーフカーでマウンドに向かう時の声援はものすごいものがあった。その後、ほかのチームを渡り歩いたけど、ロッテほどファンから愛されるチームはない。

藤田 当時は今のようにメディアに取り上げられることもなかったし、人気もなかった(笑)。ファンとの距離も近く、自分たちも支えてくれる方のためになんとしても結果で応えたかった。2005年のシーズンを経験したというのは、本当に大きかった。

後編につづく>>

プロフィール
藤田宗一(ふじた・そういち)
1972年、京都府生まれ。島原中央高から西濃運輸に進み、1997年のドラフトでロッテから3位指名を受け入団。1年目から56試合に登板するなど、中継ぎのスペシャリストとして活躍。2006年には第1回WBCの日本代表に選出され、世界一を経験。その後、巨人、ソフトバンクでもプレーし、2012年にはBCリーグの群馬ダイヤモンドペガサスで選手兼コーチとして入団。同年限りで現役を引退。引退後は焼肉屋オーナーになるが、2018年より解説者に。現在はケニアの野球発展のために現地で指導も行っている。 https://yell.en-jine.com

小林雅英(こばやし・まさひで)
1974年、山梨県生まれ。都留高から日本体育大、東京ガスを経て、1998年のドラフトでロッテから1位指名を受け入団。1年目は先発としても起用され、46試合の登板で5勝をマーク。3年目の2001年からクローザーとなり、2007年まで毎年20セーブ以上を挙げるなど活躍。「幕張の防波堤」の異名をとった。2008年からMLBのクリーブランド・インディアンスに移籍。おもに中継ぎとして57試合に登板。翌年も残留となったが、シーズン途中に契約解除。同年オフに巨人と契約するも1年で戦力外となり、オリックスへ移籍。ここでも結果を残せず、2011年限りで現役を引退。引退後はオリックス、ロッテでコーチを務め、現在はプロ野球評論家として活躍。

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