2005年伝説の日本一のロッテは
「今では当たり前」の野球の先駆者だった

  • 栗田シメイ●文 text by Kurita Shimei
  • photo by Sankei Visual

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藤田宗一×小林雅英 対談(前編)

 今から15年前、ボビー・バレンタイン監督体制2年目のシーズン。ロッテは前年のリーグ4位から一気に日本一へと駆け上がった。先発ローテーションの6人全員が2ケタ勝利をマークし、若手、中堅、ベテランが融合した打線は超強力で"マリンガン打線"の異名をとった。そしてなによりチームの屋台骨を支えたのが、薮田安彦、藤田宗一、小林雅英の3人で形成した勝利の方程式"YFK"だ。今回、今でも親交が続いている藤田、小林の両氏に、史上最強と言われる2005年のロッテについて語ってもらった。

2005年、日本シリーズで阪神を4タテし、31年ぶりの日本一に輝いたロッテ2005年、日本シリーズで阪神を4タテし、31年ぶりの日本一に輝いたロッテ小林 あの年はどんなチームが相手でも負ける気がしなかった。とにかく打者が打つから、投手陣は3、4点で抑えたら勝てるという気持ち的な部分で楽だった。2005年の前年に0.5ゲーム差でプレーオフ進出を逃して、悔しい思いを経験した。あれはチームが変わるターニングポイントになった。とくに自分が打たれて、最後の最後に3位から転落して......。だから2005年は前年の反省があり、チーム全員がキャンプから「今年は絶対にやってやる」という思いでシーズンに入っていた。

藤田 2004年は8月まで日本ハムに4.5ゲーム差をつけていたのに、最終的に逆転されて。最終戦が終わり、バックスクリーンに映し出された日本ハムの試合を祈るように見ていたのは今でも覚えている。

小林 あの悔しさは今でも忘れられない。

藤田 2005年は開幕ダッシュを決めて、自分自身体が軽くて、ボールもキレキレ。連投しても平気で、体が思うように動いていた。じつはあのシーズン、45試合しか投げていなくて、それが大きかったのかなと。それまでは(1シーズン)ほぼ60試合くらい登板していたから......そう考えると、ボビー(バレンタイン監督)が役割をはっきり分けて投手起用していたよな。

小林 自分もその年の登板は46試合でしたからね。NPB全体でもあのシーズンくらいからかな、うしろの3枚を固定してリリーフ陣を回すという概念が浸透しはじめたのは。7回が藤田さん、8回が薮ちゃん(薮田安彦)、9回が自分。"YFK"と呼ばれる勝利の方程式が完成した。

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