宮本和知は突然のロス五輪出場に戸惑い「うれしい気持ちはほぼなかった」

  • 石田雄太●文 text by Ishida Yuta
  • photo by Nikkan sports/AFLO

野球日本代表 オリンピックの記憶~1984年ロサンゼルス大会
証言者・宮本和知(1)

 1984年、ロサンゼルス五輪──。

 アメリカで開催されたこのオリンピックで、20年ぶりに野球の試合が公開競技として行なわれた。

 じつは、1964年の東京五輪でも野球は行なわれている。開会式の翌日の10月11日、アメリカの大学選抜のチームが日本の学生選抜、社会人選抜チームと戦ったという2試合のみの公開競技ではあったが、神宮球場に5万人の観客を集めた。この年のプロ野球、日本シリーズは阪神タイガースと南海ホークスが対戦、史上初めて関西のみで行なわれていたということもあって、関東のファンは野球に飢えていたのかもしれない。

貴重な左腕としてロス五輪の日本代表に選ばれた宮本和知貴重な左腕としてロス五輪の日本代表に選ばれた宮本和知 その東京五輪以来となったロサンゼルス五輪の野球は、初めてナショナルチームが参加して開催されることになっていた。しかし当時、社会人の選手を中心に代表選手を選出していた日本は、1982年に開催された世界選手権で韓国に、1983年のオリンピック代表決定戦ではチャイニーズ・タイペイに敗れて、ロサンゼルス五輪への出場権を逃していた。

 となれば、日本としてはロサンゼルスの次のソウル五輪を目指すしかないと、1984年5月、当時、世界最強の呼び声高いキューバを日本へ招き、全日本のほか、東芝、住友金属、プリンスホテルによる、6試合の強化試合を行なった。その時、全日本のメンバーに選ばれていたのが川崎製鉄水島に所属していた20歳のサウスポー、宮本和知(のちに巨人)だった。宮本が当時をこう振り返る。

「あの時のキューバは本当に強かったんですよ。6試合やって、1勝しかできなかった。その1勝は僕が投げた試合だったんですけど、僕ら、国際大会に出て世界のいろんな国と試合した経験がなかったので、日本のアマチュア野球のレベルが世界のなかでどの位置にあるのかということはまったくわからなかったんです。自分たちが強いのか弱いのか、想像もつかなかった。

 そんな時にキューバと戦って、世界はこんなに強いのかと思い知らされました。僕なんて、キューバは野球が強い国だということさえ知らなかったんです。世界の野球についての勉強もしていなければ、情報もなかった。とにかくキューバにコテンパンにやられて、ああ、オレたちのレベルは相当、低いんだな、アメリカなんてもっと強いんだろうなって、そう思っていました」

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