阿部慎之助は強肩強打だけじゃない。
捕球技術も超一流で捕手の手本だ
今から24年も前の話である。千葉にある東京学館という高校に剛速球を投げる投手がいると聞いて、練習試合を見に行った。その投手の名は石井弘寿。のちにヤクルトに進み、やがて抑えの切り札として一時代を築いた左腕だ。
その練習試合の相手が安田学園で、そのチームの4番を打っていたのが当時2年生の阿部慎之助だった。阿部は1年から4番を任されるなど、素質の高さは早くから評判になっていた。しかし、当時はまだ素質の高さをプレーに反映できておらず、いい選手であることに変わりはないが、「すごい」とは思わなかった。
19年のプロ野球生活に別れを告げた巨人・阿部慎之助 その試合で阿部は三塁を守っていて、正面の強烈な打球をトンネルし、ボールがレフトポールあたりまで転がっていったことを今でもはっきり覚えている。ただ、それよりも強烈に印象として残っているのが、スローイングのよさだ。きれいな回転で、まさに糸を引くようなボールが一塁手のミットに吸い込まれていく。肩の強さとスローイングの正確さは、高校生でもトップクラスだった。
翌年、最上級生になった阿部がキャッチャーになったと聞いた時も、「そりゃそうだ」と妙に納得したものだ。ただその時点では、そこまで飛び抜けた選手という印象はなかった。
それが中央大に入って2年の頃だったと思う。リーグ戦で見た"捕手・阿部慎之助"は、劇的に変化していた。
当時、中央大は東都大学リーグの二部だったが、阿部のプレーは洗練されてきたというのか、ユニフォーム姿もビシッと決まっていて、ほかの選手とは明らかに違うオーラを漂わせていた。
チームの不動の4番として活躍し、あれよあれよという間に学生ジャパンに選ばれ、4年生になると日本代表の一員としてシドニー五輪を経験。押しも押されもせぬドラフト1位候補となり、阿部はどこの球団を逆指名するのかに注目が集まっていた。
「久しぶりに定期券を買いましたよ。毎日、毎日、ここと家の往復だけですから......」
あるスカウトが苦笑いしながら、そう語っていた。
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