借金返済のためプロ野球に「転職」。酒豪打者・永淵洋三の数奇な人生 (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

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 細長いカウンターの店内の奥、座敷席に高い声が響いた。日本ハムの大谷翔平が〈二刀流ルーキー〉として話題になるなか、永淵さんの名前が新聞紙上にしばしば登場、記事にコメントが載るようになった。永淵さん自身、当時の近鉄監督だった三原脩の方針のもと、プロ1年目に投手と野手両方でプレーしているのだ。

 僕はその詳細を把握せずにいたが、2013年3月29日、投手登録ながら、高校出1年目ながら、大谷が8番・ライトで先発デビューした西武との開幕戦。その姿を一塁側スタンドで目撃した者として、45年前の、元祖〈二刀流ルーキー〉の全貌を知りたくなった。イニング間のキャッチボールでライトからこちらに向かってくる大谷の投球に見とれ、「二刀流なら、この後の登板もあるか」と実感したことも、会いに行くきっかけになった。

「ノンプロで最後のとき、『ピッチャー足らん』ということでね。それまで僕は毎日、バッティングピッチャーやってたもんで、肩、強くなって体力もついてるから、ピッチャーとバッター、両方やってたんですよ」

 社会人時代の最終年も「二刀流」だったという永淵さん。身長168センチでは対象にならないと、当初はプロを意識していなかったが、長嶋茂雄と王貞治を見て考えが変わった。

「会社の近くに川崎球場があって、ちょいちょい試合を見に行ってたとき、ちょうど長嶋さんと王さんが人気絶頂でね。プロでやりたいなっていう気になってきたんです」

 さらに1963年、同じノンプロの黒江透修(くろえ ゆきのぶ)が永淵さんのモチベーションを上げる。ある試合で「打球が速い。この人はちょっと違う」と感じた黒江が、翌年、巨人に入団。自分と同じように小柄な選手(黒江は身長165センチ)がプロに入ったことで「俺もできるんじゃないか」という気になった。

「ノンプロですけど、成績は残してました。でも全然、プロから話は来ない。そこで入社5年目、どうしてもプロ野球でやりたくてね、テストを受けようと思ったんです」

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