原口文仁は系譜を受け継ぐか。八木裕から始まった阪神「代打の神様」 (3ページ目)

  • 中田ボンベ@dcp●文 text by Nakata Bonbe
  • photo by Kyodo News

◆阪神の代打史を彩ったスターたち

○遠井吾郎(1958年~1977年)

 阪神の代打の切り札といえば、八木や桧山を思い浮かべる人も多いが、2人に抜かれるまで代打通算打点の球団記録を持っていたのが遠井吾郎だ。大阪タイガース時代の1958年に入団した強打者で、藤本勝巳らと攻撃の中心を担った。1970年代中盤以降は代打で起用されることが多くなり、当時球団最多となる通算96点の代打打点記録を達成した。

○川藤幸三(1968年~1986年)

 1968年に入団した川藤は、入団当初は俊足が武器の選手だったが、足の負傷をきっかけに代打での起用を志願した。代打なら、活躍すれば目立ってヒーローになれるというのがその理由だったが、地道な練習が功を奏し、順調に代打としての結果を残していく。そうするうちに代打の切り札として定着。明るくひょうきんな性格というのもあって、レギュラー選手を超えるほどの絶大な人気を得るまでになった。1986年のオールスターゲームに初出場した際も第2戦で代打として登場。長打を放つも、走塁がおぼつかずに二塁でアウトという、今も語り継がれる珍打席となった。

○真弓明信(1973年~1995年) ※阪神には1978年オフに加入

 走攻守に優れたオールラウンダーとして名をはせた真弓は、1978年オフに「世紀のトレード」でクラウンライターライオンズから阪神に移籍。1990年代初頭までチームの中心として活躍するが、1992年に新庄剛ら新戦力の台頭で代打に使われるようになった。そこでもさすがの打撃力を披露し、1994年にはシーズン代打打点記録となる30打点を達成した。この記録はいまだに破られていないセ・リーグ記録だ。

 代打で活躍する選手は他球団にも多数いるが、阪神には「代打の神様」というキャッチーな称号があるために話題になりやすい。その分プレッシャーも増えるが、歴代の神様たちはそのプレッシャーをはねのけ、チームに貢献してきた。次の「代打の神様」と目されている原口も、大きなプレッシャーがかかるだろうが、奇跡のカムバックを果たした不屈の闘志で乗り越えてくれるだろう。まだ27歳と若いため、今後の活躍次第では正捕手の座も当然ありえる。多くの野球ファンに感動を与えた原口のこれからの活躍に期待したい。

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