「代打の切り札」矢野謙次。巨人→日本ハムに移籍後2年は悩んでいた
今年度で38歳を迎える"松坂世代"の選手たちが次々と引退を発表する中、巨人、日本ハムで活躍した矢野謙次もまた現役生活を終える決断を下した。
2002年のドラフト6位で巨人に入団。並居るスター選手の中でスタメンに名を連ねることもあったが、「代打の切り札」として記憶しているファンは多いだろう。2015年のシーズン途中からは日本ハムでも勝負強さを発揮し、2018年のシーズンをもってユニフォームを脱ぐことになった。
今回、インタビューの場所として指定されたのは、彼の母校である國學院大学のたまプラーザキャンパス。その中庭にトレーニングウェア姿で現れた矢野が、現役生活を振り返った。
10月10日に行なわれた引退セレモニーで中田翔から花束を受け取った矢野──グローブと通常のバット、ノックバットもお持ちですが......。
「さっきまで、母校のグラウンドを借りてひとりで自主トレをしていたんですよ。これから指導者などの要請があったときにすぐに対応できるよう、準備は万端にしておきたいんです。あと、やっぱり人間は健康第一じゃないですか(笑)」
──この母校のグラウンドは、矢野さんにとってどんな場所ですか?
「僕の野球の原点です。竹田利秋監督(現・野球部総監督)の下で、プロ野球選手になるためだけでなく、人間としての土台を作っていただきました。そうして巨人に入団してから間もなく、元1軍コーチの弘田澄男さんから『道具は大切にしろ。お前を守ってくれるのは道具しかない』と言われたことも強く印象に残っています。この2人から授けられた教訓が、僕の現役生活を支えてくれました」
──矢野さんから見た、巨人という球団の印象は?
「選手間の結束が強くて絆があるチームでした。巨人では、負けたり打てなかったりすると批判をたくさん浴びることになるので、自然と仲間とのつながりが強くなっていくんです」
──巨人では2005年から出場機会が増えましたが、スタメン定着までには至りませんでしたね。
「いつも『もう少し』というところでケガをしてしまうことが多く、2007年あたりから代打起用が多くなりました。もちろん悔しい気持ちはありましたが、生き残るためには不満を言っている暇はない。そこで最初に取り組んだのは、相手投手の研究です。どのコースに投げることが多いのか、カウントによる配球の傾向などを徹底的に調べました。
フリーバッティングでは、具体的に対戦相手を思い浮かべなから練習していましたね。例えば中日だったら、まずは先発の吉見(一起)投手、次は中継ぎの浅尾(拓也)投手、最後は抑えの岩瀬(仁紀)投手といったように、バッティングピッチャーの利き腕によって想定する投手を変えていました」
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