9球団の誘いもあっさり拒否。慶応大左腕は1億よりスーツを選んだ

  • 元永知宏●取材・文 text by Motonaga Tomohiro
  • photo by Sankei Visual

仕事としてプロ野球を選択しなかったサウスポー

プロ入りを熱望されながら、大学卒業と共に野球から離れた志村プロ入りを熱望されながら、大学卒業と共に野球から離れた志村 往年の野球ファンならば、志村亮というピッチャーの名前を覚えているだろう。

 桐蔭学園(神奈川)時代、2年春の1983年センバツで甲子園初登板。3年夏には激戦の神奈川大会を制して甲子園で2勝を挙げた。その後は慶應大学へ進学、すぐに神宮デビューを果たし、開幕カード第2戦に初先発して56年ぶりとなる新人の開幕カード完封勝利を記録した。

 さらに4年春と秋のリーグ戦では、5試合連続完封、53イニング連続無失点記録も樹立している。4年間で31勝、防御率1.82という成績を残したクレバーなサウスポーは、当然のようにプロ入りを期待されたが、その道を選ぶことはなかった。

 志村が東京六大学リーグでプレーしていた1980年代後半、各大学にはのちにプロ野球で活躍する選手がたくさんいた。しかし1988年は、即戦力と目される大学、社会人のピッチャーが少なかったため、1年生のときから各球団のスカウトの注目を集めていた志村の獲得に、9球団が動いたという噂もある。

 しかし、志村はドラフト会議を待つことなく、企業への就職を決めた。就職先の三井不動産には野球部はなかったため、この決断は野球をやめることを意味する。当時22歳の志村は何を思ったのか。

「小学校のころ、『将来の夢は?』と聞かれたら『プロ野球選手』と答えていました。プロのことなんて何も知らなかったので軽々しく言えましたけど、高校、大学と進むにつれてプロがどんな世界かわかってきて、口にすることはなくなりました。厳しい世界だと知って、本当に自分が行くべきかどうかを客観的に判断したんです」

 プロ野球のスカウトを含め、「志村ならプロで10勝できる」という評価があるなかで、本人が一番冷静だったのかもしれない。

「『通用するかはわからないけど、自分の力を試したい』という気持ちで入るところではないと思っていました。プロ野球は体を壊したり、実力が足りないと判断されたらすぐに戦力外通告を受けますから。そのときの自分には、『それでもいい、一生を捧げるつもりで入るか』という考えはありませんでした」

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