橋上秀樹のコーチングの原点は、野村の教えと「4年間の接客業経験」 (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki
  • 小池義弘●写真 photo by Koike Yoshihiro

 最初は「監督に言われた通りにバットを短く持たないといかんな」という気持ちしかなかったが、打ち続けているうちにしっくりきた。

「短く持ったことによって、バットの操作性が私にはよかったんです。結局、バットコントロールがよくなる、ミート率が上がる、止まらなかったハーフスイングが止まるようになる。すると三振だったものがフォアボールになる、塁に出ることによって盗塁ができる。となれば、チームにとって作戦が立てやすくなる、というところにつながっていったんですね」

 もっとも、バッティングを変えただけでは生き残れない。当時のヤクルト外野陣は飯田哲也、秦真司、荒井幸雄の3選手でほぼ固まっていた。特にセンターを守る飯田は監督の信頼も厚く、まずスタメンを外されることがない。すると必然的に、橋上のライバルは秦と荒井になる。

 この両選手よりも自分が上回る部分はなにか、考えてみた結果、右打者として「左ピッチャーに絶対的に強くなる」ということが思い浮かんだ。

「秦さんも荒井さんも左の好打者で、対右ピッチャーの打撃力では到底、及ばない。私は右ピッチャーのスライダーが苦手だったんです。そのかわり、左ピッチャーに対して私は強さがあって、秦さんと荒井さんに比べれば守備、走塁に不安がなかった。ならば、対左のバッティングに守りと、足はふたりよりも抜けて高めようと。要は、それまでやっていなかった自己分析をやって、初めて己を知ったことで、ポイントを絞って徹底的に練習できたんです」

 客観的にチーム構成を見て戦力の不足部分を把握し、ライバルとの比較で優劣を見定める。そうして己を知った橋上は92年、自己最多107試合に出場し、同年の西武との日本シリーズでも活躍。

 その後、1997年に日本ハムに移籍したが、3年間で自由契約となった。すると、1999年から阪神監督に就任していた野村に請われ、2000年に移籍。一軍出場は果たせずに同年限りで引退するも、のちに楽天で監督とコーチの関係になる両者の原点と言えなくもない。

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