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野村克也は「素直」で森祇晶は「したたか」。
名参謀が見た知将の素顔 (3ページ目)

  • 長谷川晶一●取材・文 text by Hasegawa Shoichi

事前の「西武対策」がほとんどできなかった1992年

――1992年のペナントレースは阪神とのマッチレースでした。10月10日に、甲子園球場で14年ぶりにセ・リーグ優勝。そして日本シリーズは翌週17日開幕という日程でした。事前の準備はどのくらいできたのですか?

丸山 ほとんどしていないです。もちろん、ミーティングを重ねたりビデオを見たりはしましたけど、西武の資料が少なくて、シリーズが始まってから直接対策を考えるという感じでした。むしろ、この1週間は自軍のコンディション調整や、士気を高めることがメインでした。

――そうした状況の中で、「勝てるぞ」という自信、手応えはありましたか?

丸山 うちは若い選手が多かったし、初めてシリーズに出場する選手がほとんどだったから、「勝てるぞ」というイメージはなかったです。正直に言えば、「セントラルの代表として、無様な試合はできないな」というイメージでした。ただ、僕の気持ちとしては、勝つとか負けるとかはともかく、勝負事は「やってみなくちゃわからない」と楽観視している部分もあったけどね。だけど、相手メンバーを見たら、すべてが西武のほうが上だったけど。

――野村さんはシリーズ開幕前に、「ひとつ敗れるとズルズルいってしまうので、4勝0敗で勝つ」と宣言しました。これは本音だったのでしょうか?

丸山 全然、本気じゃないと思いますよ。確かに、ひとつ負けたらズルズルいってしまいそうな気配はあったから、選手たちに意識を植えつけるためにも「4連勝する」と言ったんだと思います。それは、あの人の得意なやり方ですよ。

――そもそも、丸山さんが野村監督の下でヘッドコーチに就任するきっかけは何だったのですか?

丸山 僕がヘッドコーチになったのは、野村さんの2年目の1991年です。このときは「お前、やってくれないか」ということで引き受けました。野村さんは外から来た人だったので、ずっとスワローズにいる僕がそばにいるのはやりやすかったんじゃないですか? 野村さんはよく、「オレはチーママだから」と僕にこぼし、「その点、丸山は大ママだから」と言っていました。自分のことを「雇われママ」だと思っていたんですかね(笑)。

――野村さんの就任によって、少しずつ「ID野球」がチーム内に浸透していくわけですね。

丸山 そうですね。広澤(克実)や、池山(隆寛)は多少、とまどいはあったようだけど、古田(敦也)は全面的に信頼して伸びていきました。たとえば、「この流れだと次は70%の確率でストレートが来る」というデータがあったときに、広澤は「でも、ひょっとしたら変化球が来るかも?」と、「残り30パーセント」のことを不安に思うタイプ。一方で古田は「70%なら大丈夫だ」と、楽観的に考えるタイプでしたね。こうして彼らが成長した結果が、1992年の日本シリーズ進出だったんです。


(後編に続く)

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