石毛宏典も打席でイラっ。打倒・西武へ野村監督は用意周到だった (4ページ目)

  • 長谷川晶一●取材・文・撮影 text & photo by Hasegawa Shoichi

――1993年のシリーズで印象に残っている場面はありますか?

石毛 「場面」ということではないけど、この年は高津(臣吾)にきりきり舞いさせられた印象が強いです。彼のシンカーは本当に打てなかった。あとは、配球の変化も印象に残っています。前年のシリーズで岡林(洋一)のインサイドのボールが有効だったこともあって、1993年は大輔、西村、川崎によるインサイド攻めが続いていたけど、第3戦、4戦以降はインサイドを意識させながら、外中心の配球に変わっていきました。ギャンブルスタート、配球の変化、そして前年にはいなかった高津のシンカー・・・・・・。野村監督の「備え」にやられたシリーズだったのかな。

――その一方で、石毛さんから見た「森祇晶監督」とはどんな方でしょうか?

石毛 僕は広岡(達朗)監督の下でも野球をやりました。まず、広岡さんと森さんを比較するとすれば、広岡さんは技術指導に長けた"職人タイプ"の監督で、森さんはマネジメントに長けた監督だったと思います。あの当時、俺も含めて、辻、秋山、伊東(勤)、田辺(徳雄)など、主力のほとんどは広岡さんに鍛えられたメンバーばかりでした。だから、広岡さんが作り上げた選手、技術力を、森さんが受け継いでマネジメントをされた。それがうまく機能したんだと思います。

――あらためて、「1992年、1993年日本シリーズ」について振り返っていただけますか?

石毛 1992年はうちが勝って、1993年はヤクルトが勝って、2年間では7勝7敗の成績だったけど、それで「互角だった」と言っていいのかどうかは僕にはわからないです。どっちが勝っている、どっちが劣っているじゃなく、ああいった檜舞台で両チームの選手たちが死力を尽くして、多くの経験をしたということのほうが大切だと思いますね。そして、それをきちんと後輩たちに伝えていくこと。「あぁ、そんなすごい日本シリーズがあったんだ。俺も出たいな。もっと頑張ろう」と思ってもらえるように。

(つづく)

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