荒木大輔が振り返るトミー・ジョン手術。
日本で3人目に迷いはなかった (2ページ目)
──しかし、スワローズから1982年にドラフト1位指名を受け入団。プロ1年目の1983年に初勝利を挙げ、3年目の1985年はシーズン後半から先発ローテーションに入り、6勝をマークしました。
「最初の1、2年目は、『どうなるかな?』と自分でも不安でした。1985年は、当時の土橋正幸監督に『二軍で鍛え直してこい。死に物狂いで練習して、夏場以降に上がってこい』と言われたんです。それまでも練習はしっかりやっていたのですが、このときに生まれ変わったつもりで鍛えたことが、その後の自信になりましたね」
──1986年には22試合に先発して8勝13敗。1987年は前年に続いて開幕投手を務め、25試合に先発して10勝9敗という成績を残しました。ところが、1988年のシーズン中盤に、右ひじを痛めて戦列からの離脱を余儀なくされてしまいます。
「ひじが痛かったのは高校時代からです。1年生の夏の大会が終わってから秋にかけて、すでに疲労性の痛みがありました。でも、投げられる状態だったので、間隔を空けて投げるようにしていました。おそらく、あの程度の痛みは、ほとんどのピッチャーが感じていたと思います。間隔さえ空ければ、まったく問題はありません。
プロに入ってからも同じような状態が続きました。いまと違って、投手の球数制限などなく、二軍の試合でも100球以上投げることは当たり前。中3日での登板も珍しくなかった。当初は私のひじも、そういうことに耐えられる状態でした。たまに、早い回にKOされたら『明日も投げろ』と言われることもありましたが......」
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