巨人投手陣を救う。小山雄輝を急成長させたノート (2ページ目)

  • 高森勇旗●文 text by Takamori Yuki
  • photo by Nikkan sports

 往々にして、悪いことは重なる。

「宮崎に着いてすぐ、インフルエンザにかかってしまった。ホテルの部屋で缶詰状態の中、チームは東京へ帰っていった。オレはひとり、宮崎に残り何もせずに部屋で(インフルエンザが)治るのを待つしかなかった」

 その頃、東京では読売巨人軍創立80周年として、選手はもちろん、球団職員も総出の記念撮影会があり、カメラマンに巨匠・篠山紀信氏を迎えての一大セレモニーが行なわれていた。だが、小山はただひとり、その写真に写ることができなかった。

「ヤフーニュースで知ったよ。えっ、そんなんやってるの?って。でも、オレ、部屋から出られなかったからね」

 笑いながらそう語る小山だが、今季のスタートは考えられる範囲の中で最悪だったと言っても過言ではないだろう。

 開幕を二軍で迎えた小山だったが、調子は決して悪くはなかった。

 ブルペンでは、140キロ台後半のボールがコーナーに決まり状態の良さをアピールするものの、試合では打ち込まれた。そんな小山を「ブルペンエース」「ブルペンでは1億円プレイヤー」と揶揄する者も、ひとりやふたりではなかったという。

 4月、二軍での日本ハム戦。この日もブルペンの調子は良く、試合でも140キロ台後半のボールが小気味よく決まっていた。しかし、打たれる。高卒ルーキー中心の日本ハム打線に、5回を投げ12安打、5失点と打ち込まれた。そんな小山の姿を見かねた岡崎二軍監督の猛ゲキが、試合中のベンチに轟(とどろ)いた。

「なんであんなにいいボールが打たれるんだ! オマエのボールは見やすいんだよ! 打ちやすいんだよ! 怖くないんだよ! 工夫しろよ!」

 この一言をキッカケに、小山はプロ入り後始めてフォームの改造に着手する。

「とにかく、横に動いている時間を長く取るようにした。ギリギリまで前(バッター方向)を向かない。そういう意識で投げていたら、勝手にインステップになっていた」

 これまで、(軸足の)右足かかとの線上に踏み出していた左足が、つま先の線上に変わっていた。ちょうど一足分。およそ29センチの変化が、小山を劇的に変えることになる。

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