【根本陸夫伝】
新生・西武ライオンズを関東に根付かせた大胆な広報戦略
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1954年千葉県生まれ。駒大高、駒沢大、住友金属を経て、78年ドラフト1位で西武に入団。83年に34セーブを挙げて最優秀救援投手となるなど、西武の黄金期に活躍した。89年から西武の投手に。その後、日本ハム、横浜、中日でコーチを務めた。
証言者・森繁和(1)
2004年から中日のコーチを務め、参謀として8年間、落合博満監督を支え続けた森繁和。チームはAクラスの座を守り続けた中で、4度のリーグ優勝、1度の日本一を達成し、指導者として確固たる実績が作られた。森は2011年限りで落合監督とともに退団。野球評論家となって刊行した二冊の著書には、「根本陸夫」の名が何度も登場している。1999年の逝去から15年が経った今も、強いチームには根本の遺産が生きている、と感じられた。そして昨年のオフ、森はヘッドコーチとして中日に復帰。今度は落合GMのもと、谷繁選手兼任監督を支える野球人となった。その森に、根本陸夫という存在について聞いた。
マスコミの注目を集めるためのスター選手獲得
「根本さんはオレにとって、消すことのできない人。西武ができていちばん初めのドラフト1位だったから、結構いろんな面でいろんなことを教わりました。野球に関してはもちろん、一般社会人としてもね。だからいつも『オヤジ』と呼ばせてもらって、慕っていました」
駒沢大時代、1976年のドラフトで、森はロッテから1位指名を受けるが拒否。住友金属に入社し、社会人でプレイして2年後、"江川問題"で大混乱となった1978年のドラフトで、クラウンライターから経営権を譲渡された新生球団・西武に1位指名されてプロ入りを果たした。
「担当のスカウトは、元東映で"ミスターフライヤーズ"と呼ばれた毒島章一(ぶすじま・しょういち)さん。ずっと誘われていたんだけど、クラウンは九州だったから、関東の球団を希望していた自分は行くつもりはなかった。それが西武に身売りとなって、指名された後、監督の根本さんがわざわざ家まで来られて、親父に挨拶してくれた。『息子さんを実の子どもだと思って預からせていただきます。私に任せてくれれば大丈夫ですから』って言われて、親父は『はあ、じゃあ、頼みます』って。オレ自身の考えはどうでもいい、って感じでしたね」
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