56号狂想曲、もうひとつの物語。その時、川端慎吾は......!?
ウラディミール・バレンティン(ヤクルト)の本塁打狂想曲から10日以上が過ぎ去った。50号を過ぎた頃から、球場にはふたつの野球が存在していた。本来の勝敗を競うゲームと、バレンティンのホームランという名のショーである。
だが、記録への高まる期待の横には、常にストレスが寄り添っていた。バレンティン本人はもちろん、ボール球を投げるたびに味方ファンからもブーイングを浴びる相手投手、そしてバレンティンの前を打つヤクルトの選手にも重圧がのしかかっていた。
バレンティンの前を打つ3番の川端慎吾も少なからずプレッシャーを感じていた
「試合終盤の二死で打席が回ってきた時は、球場全体から『ココ(バレンティンの愛称)まで回せよ』みたいなプレッシャーを感じましたね」(川端慎吾)
バレンティンの前には常に川端がいた。ヤクルトの3番打者は、あの熱に浮かされたような試合にどう向き合っていたのか。そこにもひとつの小さな物語があった。
川端慎吾は2005年に市立和歌山商業から高校生ドラフト3位でヤクルトに入団。1年目にヤクルトの高卒新人としては1968年以来となるプロ初安打を記録。その後も着実に成長し、昨シーズンは2割9分8厘の活躍をみせたが、今年の4月22日に右足首を手術。7月に戦列に復帰して、すぐに今回の狂想曲に巻き込まれたのだった。
「でも、あの打席以来、自分も変わることができましたね」
―― 9月13日の阪神戦、7回裏一死満塁で3番の川端に打席が回ってきた時のことだ。
「打席に立つと、球場がチャンスに盛り上がっているというか、これで次は『ココと勝負するしかなくなるぞ』っていう空気なんですよ」
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