【プロ野球】古田、稲葉、宮本――名球会3人を輩出した90年代ヤクルトの遺伝子 (2ページ目)

  • 阿部珠樹●文 text by Abe Tamaki
  • 岩本直哉●写真 photo by Iwamoto Naoya

 首位打者にもなった古田から打撃の極意でも伝授されたかというとそうではない。宮本が古田に感謝したのは、何よりも古田の打撃力だった。どのチームも、投手を除けば捕手の打力が弱いチームがほとんどだ。ところがヤクルトには古田という4番も打てる捕手がいた。そのおかげで監督は、打撃に少々目をつぶっても守備のいい自分を起用してくれたというのだ。だから古田が恩人というわけだ。

 出場機会が増えるにつれて徐々に打撃力も身に付けていった。しかし、宮本にしても稲葉にしても、当時はチームの中軸というより2番や下位打線など、いわば脇役的な存在だった。

 その宮本と稲葉の打撃のルーツをたどると、ひとりの名コーチにたどり着く。かつての西鉄ライオンズの大打者で、70年代にはヤクルトの打撃コーチを務めた中西太氏だ。宮本は中西臨時コーチの元で99年、ほとんどマンツーマンのような指導を受け、打撃に開眼した。それまでは一度も3割を打ったことがなかったのに、中西コーチの指導を受けたあとは実に6回も3割をクリアしている。「中西コーチとの出会いが自分の打撃のすべて」といった意味のことを、宮本も発言している。

 一方、法政大学時代に野村監督が目を見張ったほどの打撃術の持ち主だった稲葉は、プロに入ると内角打ちで苦労した。入団当時の二軍監督で、のちに監督となる若松氏によると、「バットが外から大きく回ってしまう、いわゆるドアスイングで、内角がうまくさばけなかった」という。

 その稲葉を若松氏や八重樫幸雄打撃コーチが徹底的に鍛えた。このふたりは現役時代、ともに中西コーチの指導を受けた選手である。つまり稲葉は打撃術の流れでいうと中西コーチの孫弟子に当たるわけだ。また、ふたりは配球の読みや戦術眼では野村監督やその愛弟子である古田の影響もたっぷり受け取った。

 92年から01年までの10年間でリーグ優勝5回、日本一4回――メンバーは変わってもこのような結果を残してきたのは、ヤクルトに流れる『技術』と『頭脳』の遺伝子がしっかりと受け継がれてきたからだろう。脇役だったふたりの2000本安打を見て、あらためて当時のヤクルトというチームの奥深さを感じた。

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