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【MLB日本人選手列伝】マック鈴木:NPB経験なしでメジャーリーガーとなった初の日本人は、グラブひとつで世界中を駆け巡った (2ページ目)

  • 文/生島 淳 text by Ikushima Jun

【「グラブひとつ持って飛行機に乗り込めば」】

ロイヤルズ時代の2000年はMLBでの自身最高成績を収めた photo by Getty Imagesロイヤルズ時代の2000年はMLBでの自身最高成績を収めた photo by Getty Images

 初勝利は1998年の9月14日、ミネソタ・ツインズ戦でマーク。翌年、カンザスシティ・ロイヤルズにトレードされるが、マックがメジャーリーグで最も成功を収めたのは2000年のシーズンだった。

 この年はローテーションをしっかりと守り、シーズンを通して29試合に先発し、188回3分の2を投げ、8勝10敗の成績を残した。私がこの年の6月、アナハイムで見た時のマックは、まさに充実期を迎えていたのだった。

 アナハイムでのマックは、実にたくましかった。

 まず、体のサイズがメジャーリーガーそのものだった。もともとの素質に恵まれていたにせよ、191センチの長身で、すらりとした体型は、ロイヤルズのグレーのユニフォームがよく似合っていた。

 しかし好調は長くは続かなかった。その後、ロッキーズ、ブルワーズ、再びロイヤルズでプレーしたが、先発、ブルペン投手としても結果を残せず、2002年を最後にアメリカ球界を去る。同年秋のNPBドラフトを経て、オリックス・ブルーウェーブに入団を決める。オリックスからすれば、兵庫県出身のマック鈴木を"逆輸入"した形になった。

 ただし、オリックスでプレーした3年間は満足な結果を残すことはできず、2005年のオフに戦力外通告を受けた。ちょうど30歳の時だった。

 しかし、そのあとのキャリアがすごい。

 30歳ならば、もうひと花咲かせたいと思うのは自然なこと。マックは活躍の場をメキシコ、アメリカのマイナーリーグ、ベネズエラのウィンターリーグ、台湾、ドミニカ、関西独立リーグと、さまざまな国の野球界に身を投じた。

「グラブひとつ持って飛行機に乗り込めば、世界中、どの国に行っても野球ができるチャンスは転がってるんです」

 これはマック鈴木にしか言えない言葉だろう。

 いま、日本のプロ野球を経由せずにアメリカを目指す選手が増えている。独立独歩で自らの道を切り拓いたマック鈴木の歩みは、かえって輝きを増しているように思える。

 引退後は、テレビのバラエティ番組で話す姿も見られた。彼の言葉は、まさに「ネタの宝庫」だった。

【Profile】本名:鈴木誠(すずき・まこと)/1975年5月31日生まれ、兵庫県出身。滝川二高(兵庫)中退。MLBでプレーしたのち、2002年ドラフト2位(オリックス)でNPB入り。2005年にオリックスから戦力外となると、メキシコをはじめ世界各国のリーグで現役を継続した。
●MLB所属歴(6年):シアトル・マリナーズ(ア/1996、98〜99途)―カンザスシティ・ロイヤルズ(ア/99途〜2001途)―コロラド・ロッキーズ(ナ/01)―ミルウォーキー・ブルワーズ(ナ/01)―ロイヤルズ(ア/02) *ナ=ナショナルリーグ、ア=アメリカンリーグ
●MLB通算成績:16勝31敗(117試合)/防御率5.72/投球回465.2/奪三振327
●NPB所属歴(2年):オリックス(2003〜04)
●NPB通算成績:5勝15敗1セーブ(53試合)/防御率 7.53/投球回156.2/奪三振130

著者プロフィール

  • 生島 淳

    生島 淳 (いくしま・じゅん)

    スポーツジャーナリスト。1967年宮城県気仙沼市生まれ。早稲田大学卒業後、博報堂に入社。勤務しながら執筆を始め、1999年に独立。ラグビーW杯、五輪ともに7度の取材経験を誇る一方、歌舞伎、講談では神田伯山など、伝統芸能の原稿も手掛ける。最新刊に「箱根駅伝に魅せられて」(角川新書)。その他に「箱根駅伝ナイン・ストーリーズ」(文春文庫)、「エディー・ジョーンズとの対話 コーチングとは信じること」(文藝春秋)など。Xアカウント @meganedo

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