【MLB】大谷翔平の特別な存在感 NBAマイケル・ジョーダンと同列で語られる日本人アスリートが登場するなんて...... (2ページ目)
【ジョーダンが打ち破った既成概念と残した功績】
ジョーダンが入団した当時のブルズは、弱小チームだった。先輩選手たちはパーティに明け暮れ、ドラッグやアルコールに溺れ、女性を追いかけていた。しかし、ジョーダンはそんな環境に流されることなく、バスケットに集中。寝て、起きて、バスケットをプレーする。ただそれだけのシンプルな生活を送り、驚異的なスピードで進化していった。
バスケットボールの世界では、身長が重視される(7フィート=213cmに近い選手が高さの基準になっていた)。プロ入り時、「198cmの選手(ジョーダン)がチームを変えられるはずがない」と決めつける声もあった。実際、彼より上位で指名されたふたりは、いずれもより背の高いセンターの選手だった。だがジョーダンは、「お前には無理だ」と言われるほど、それが誤りだと証明しようと奮起するタイプだった。
そしてすぐに、自らが唯一無二の存在であることを示してみせる。
2年目のシーズン、ブルズは30勝52敗と低迷したものの、第8シードでプレーオフに進出。第1シードのボストン・セルティックスに挑んだ。シリーズ第2戦、ジョーダンは相手の徹底マークをものともせず、次々とシュートを沈め、プレーオフ史上最多の63得点を記録。この試合を目の当たりにしたセルティックスのエース、ラリー・バードは「あんなプレーができる者は誰もいない、彼はマイケル・ジョーダンの姿をした"神"だ」と有名な台詞を残している。
ジョーダンは大谷と同じく、プロ7年目で初優勝を果たした。ただし、大谷がドジャースに移籍する必要があったのと異なり、ジョーダンは入団当初のブルズを自らの力で強豪へと押し上げた。この違いは、両者がプレーするスポーツの構造によるものだろう。
バスケットボールは、コートに立つのは5人。そして、勝負どころではベストプレーヤーにボールが集められる。ジョーダンにとって、スコッティ・ピッペンやホーレス・グラントといった相棒が成長することで、優勝する環境は整った。一方、野球はまったく異なる。打順がある以上、どれほど優れた打者でも毎打席打つことはできず、先発投手もローテーション制で登板数が限られる。ロサンゼルス・エンゼルスにはマイク・トラウトと大谷というふたりの超一流選手がいたにもかかわらず、チームは勝ち越すことさえできず、ポストシーズン進出も叶わなかった。野球において、ひとりの力でできることには限界がある。
筆者がアメリカに住み始めた1990年代前半は、ちょうどジョーダンがブルズを強豪へと導き、最初の3連覇を達成した時期だった。その人気はまさに圧倒的だった。テレビをつければ、ジョーダンが出演するCMが流れていた。ナイキ、マクドナルド、ゲータレード......。
ゲータレードのCMでは、「Be Like Mike(マイクのようになろう)」というフレーズが繰り返し歌われ、子どもから大人までが彼に憧れた。ナイキは1984年、ジョーダンのプロ1年目から「エアジョーダン」シリーズを発売。1年で1億2600万ドルを売り上げる大ヒットとなった。その後も毎年デザインを変えて新作を発表し、子どもたちはこぞって小遣いを貯め、競い合うように「エアジョーダン」を手に入れた。
1992年、ジョーダンはNBAファイナル2連覇を達成すると、わずか2カ月後にはバルセロナ五輪に「ドリームチーム」の一員として出場。圧倒的な強さで金メダルを獲得し、NBAの人気を世界へと押し広げた。ジョーダンは、世界で最も有名なスポーツ選手となり、彼のユニフォームやシューズは世界中で飛ぶように売れた。アスリートがグローバルブランドとして確立される時代の先駆けとなり、スポーツマーケティングの世界でも頂点を極めたのである。
つづく
著者プロフィール
奥田秀樹 (おくだ・ひでき)
1963年、三重県生まれ。関西学院大卒業後、雑誌編集者を経て、フォトジャーナリストとして1990年渡米。NFL、NBA、MLBなどアメリカのスポーツ現場の取材を続け、MLBの取材歴は26年目。幅広い現地野球関係者との人脈を活かした取材網を誇り活動を続けている。全米野球記者協会のメンバーとして20年目、同ロサンゼルス支部での長年の働きを評価され、歴史あるボブ・ハンター賞を受賞している。
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