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【高校野球】健大高崎・青栁博文監督が明かす創部秘話 300万円の借金、涙の10年間を経てたどり着いた甲子園 (3ページ目)

  • 内田勝治●文 text by Katsuharu Uchida

 しかし、その理想の組織論を指導現場に落とし込むには、想像以上に長い時間がかかった。

 創部から4年が経った2006年秋に関東大会初出場。翌2007年には専用グラウンドと室内練習場、その後、寮が完成した。環境面が少しずつ整備されたことで、県内や県外から能力のある選手が集まり始めるなど、チームは順調に力をつけているように見えた。

【自分の指導力のなさに涙】

 だが、青栁監督の心はすり減っていた。甲子園に出るまでの10年間は「本当に地獄でした」と振り返る。夜、アパートに帰って涙を流したことも一度や二度ではない。

「試合に勝つ、勝たない以前の問題でした。とにかく、選手たちのマナーが悪かったんです。試合中に点差が開くと、すぐにあきらめて投げ出す。学校でも、授業中に先生に文句を言ったり悪態をついたり......。ほかの先生方からは『野球部はろくなもんじゃない』『俺が監督をやったほうがいい』とまで言われました。自分の指導力がないのが歯がゆくて悔しくて、あの頃が一番辛かったです」

 年を追うにつれ、周囲からの風当たりも強くなってきた。創部から9年目を迎えた2010年、学校の経営陣と酒席を共にする機会があった。そこで、現実を突きつけられた。

「10年やって甲子園に行けなければ、もう終わりだな。やっていてもしょうがないだろう」

 私学もボランティアじゃない。不採算事業にはメスを入れていかなければ、経営が立ちゆかなくなる。青栁監督は就任当初から、60歳までの30年間を10年ごとに区切り、ビジョンを描いていた。
 
「最初の10年で甲子園へ行く。次の10年で甲子園の常連になり、最後の10年で全国制覇を果たす」

 甲子園初出場へのリミットが、もう目の前に迫っていた。苦悩のどん底にいた指揮官は、「ある戦術」に活路を見いだすことになる。

つづく>>

著者プロフィール

  • 内田勝治

    内田勝治 (うちだ・かつはる)

    1979年9月10日、福岡県生まれ。東筑高校で96年夏の甲子園出場。立教大学では00年秋の東京六大学野球リーグ打撃ランク3位。スポーツニッポン新聞社でプロ野球担当記者(横浜、西武など)や整理記者を務めたのち独立。株式会社ウィンヒットを設立し、執筆業やスポーツウェブサイト運営、スポーツビジネス全般を行なう

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