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【高校野球】健大高崎・青栁博文監督が明かす創部秘話 300万円の借金、涙の10年間を経てたどり着いた甲子園 (2ページ目)

  • 内田勝治●文 text by Katsuharu Uchida

 1期生は15人ほどが集まった。しかし、全員に丸刈りを強制すると、数名が退部した。残ったメンバーの半分も、中学時代はテニス部や陸上部に所属。まずは野球のルールや基礎を叩き込むことに時間を費やした。

「2002年の夏に初めて公式戦に出場し、秋には奇跡的に1勝を挙げることができましたが、まだまだチームの体をなしているとは言い難い状態でした」

【大学時代の恩師から学んだ組織づくり】

 勝てない日々のなかで、青栁監督の支えとなったのは、名将の教えと、サラリーマン時代の経験だ。

 東北福祉大時代、3学年上に金本知憲さん(元阪神監督)や、同学年に和田一浩さん(元中日)ら、のちにプロで活躍するメンバーとプレー。ただ、レギュラーとしてリーグ戦や神宮の舞台で華々しく活躍したわけではない。3年時に数試合出場した以外は、ほとんどを裏方として過ごした。当時、多くのプロ選手を輩出した伊藤義博さん(2002年に死去)が監督を務めていた。

「伊藤監督は自主性を重んじる方でした。そしてなにより、組織づくりがすばらしかった。専門のコーチを外部から招聘し、適材適所に配置する。強制的にやらせる時代にあって、非常に柔軟な組織をつくられていました」

 伊藤さんが推し進めていた組織づくりの重要性は、会社員時代に学んだ。2社目の建設会社では「ISO(品質マネジメントシステムに関する国際規格)」の取得業務を担当。どの支店であっても、組織の指示命令系統が盤石でなければ、同じやり方でも品質を管理することはできない。

「組織は自分ひとりだけでは回りません。よく会社の組織図を見て、適材適所に人員が置かれているのかを考えていました。この経験が、のちに健大高崎の指導体制の礎になります。打撃、守備、走塁など、それぞれに専門のコーチを置き、監督である自分は一歩引いて全体を見守る。そのビジョンは、サラリーマン時代にすでに描かれていました」

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