【高校野球】公立の雄・東筑の青野浩彦監督は「常識を疑う」 原点は甲子園ベンチでのドリンク飲み放題 (2ページ目)
「みんな感激して、そこから離れませんでしたね(笑)。その時に初めて『野球をしている時に水を飲んでいいんだ』と思いました。水を飲んだらいけないというのは一体何だったんでしょうね」
長距離走にも疑問を持っていた。高校でも、進学した筑波大でもマラソン選手のように走らされたが、「野球選手なのに長距離を走ることに何の意味があるのか」という思いが脳裏から離れることはなかった。
【指導者人生のスタート】
大学卒業後は一般企業への就職を考えていたが、東筑の恩師である喰田孝一(しょくた・こういち)さんからの一本の電話がその後の人生を変えることになる。聞けば、公立の北九州高校が、軟式野球部を硬式野球部として新設するので、そこで指導者にならないかという。保健体育の教員免許は取得していたため、「ちょっと行ってみようかね」と軽い気持ちで故郷へと戻った。
そして1983年春、北九州に講師として迎えられ、長い指導者人生がスタートした。
初日の練習は雨だった。とりあえず階段を繰り返し走らせたら、翌日には数人が立ち上がったばかりの部から消えた。走ることに疑問を持ちながらも、科学的なトレーニングなど皆無だった時代。雨であれば、できることは限られていた。
「あの時、階段を走らせて辞めた生徒からのちに、『僕、じつは部に入っていたんですよ』と言われたこともあります(笑)。北九州時代はけっこう走らせていたと思います」
その後、正式に北九州の教員となり、監督就任から10年目の1992年春には柴原洋さん(元ソフトバンク)が4番エースとして活躍。佐賀で行なわれた九州大会に初出場し、8強まで進出するなど、徐々に存在感を示していった。
「柴原は中学時代から軟式で評判の選手でした。高校では(両翼100メートルの)桃園球場で2連発したこともあったし、こんなに打球が飛ぶんだという印象でした」
ただ、北九州を甲子園へ導くことはできず、1994年春から母校の東筑に異動し、副部長に就任。その夏限りで勇退した喰田さんに変わり、同年秋から指揮を執った。まずは、東筑の伝統でもあったランメニューを少なくし、野球の動きに極力時間を割いた。
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