「清原和博、桑田真澄の1年生の起用は上級生の反発もすごかった」PL学園元監督の中村順司が明かすKKコンビ秘話 (2ページ目)

  • 藤井利香●取材・文 text by Fujii Rika

●桑田真澄に主役を譲った"エース"の活躍

 清原は横浜商との決勝戦の2回に先制ホームランをライトラッキーゾーンに叩き込む。これが記念すべき甲子園第1号だった。

「それまで清原はプレッシャーから神経性の下痢に悩まされ、池田戦でも4打数すべて空振り三振。でも思いきってバットを振ったので、試合後に私が清原に言ったのは、『ナイススイング!』。これで少しは気がラクになったのかもしれません。

 清原、桑田に関しては、PLで1年生を使うなど異例のことで、上級生の反発はかなりのものでした。話し合いを重ね、理解を得たうえでメンバーを決めましたが、3年生のバックアップなくして1年生ふたりの活躍はなかったと思いますね。

 とくにエース番号をつけながら主役の座を譲った藤本耕は、大会中ずっとバッティング投手を務め、私はどこかで投げさせたいと思っていた。それが実現したのが、高知商戦でした。

 その試合は5回表を終わって8−0と大量リードしながらも、そのあと相手の猛反撃にあいます。次の池田戦を意識して、選手にも私にも心にスキが生まれていたんですね。結果的に10−9で辛勝しましたが、踏みとどまれたのは7回から登板した藤本のおかげ。辛抱強く投げてくれました」

PL学園監督時代、若かりし日の中村 写真提供/中村順司PL学園監督時代、若かりし日の中村 写真提供/中村順司この記事に関連する写真を見る KKコンビが2年生となった1984年春は、決勝戦で初出場の岩倉(東京)に敗れて準優勝。中村の監督就任以来続けてきた甲子園連勝記録も、ついに20でストップした。

 続く夏も甲子園決勝戦に躍り出るが、PLの2連覇を阻んだのが木内幸男監督率いる取手二高(茨城)。9回裏に4−4の同点に追いつく粘りを見せたが、延長10回表に桑田が3ランを打たれて決着がついた。

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