甲子園のヒーロー吉永健太朗はなぜプロに進めなかったのか。「いろいろと手を加えてしまったのがいけなかった」 (2ページ目)

  • 石塚 隆●取材・文 text by Ishizuka Takashi
  • 大友良行●写真 photo by Ohtomo yoshiyuki

早大時代の吉永さん。ケガやフォームの固定に苦しんだ早大時代の吉永さん。ケガやフォームの固定に苦しんだこの記事に関連する写真を見る 自分で考えて試行錯誤し実践することは決して悪いことではない。が、ピッチャーは繊細な生きものだ。時にフォームを見失ってしまい、いい時の自分に戻ろうとしても、フィジカルや可動域が変わっていることもあり、結果どんどん形が崩れていってしまうことがある。再現性を取り戻すことも含め、非常に緻密で高度な作業が必要となる。

「一番調子のよかった高校時代のアジア選手権で投げていた時の自分を追い求めてしまったのが、振り返ってみれば悪かったのかもしれません。自分に納得できず、だんだん不安になっていってしまって......」

 自戒を込め、吉永さんは言う。

「小手先に走らず、仮に結果が出なくても自分のやっていることの方向性が正しいと思えることのほうが大切だったかもしれません」

逆境にも心を支えた高校時代の経験

 大学時代の後半はケガもあり、思うような結果を残せぬまま卒業を迎えることになった。そこで声掛けてくれたのが、JR東日本の堀井哲也監督(当時)だった。堀井監督は大学1年の時に吉永さんが選出された社会人ジャパンのコーチを務めており、それが縁でことあるごとに吉永さんを気にとめてくれていた存在だった。

 心機一転、リスタートとなる社会人生活だったが、ここでもまた塗炭(とたん)の苦しみを味わうことになる。野球の神様は、時に非情だ。

 1年目のオフに堀井監督から打者転向を勧められたが、ピッチャーも続けるという条件で同意をした。そして2年目の3月のオープン戦、走者として帰塁した際、頭から突っ込み右肩を亜脱臼し、靭帯の一部を断裂してしまう。早い復帰を目指し保存治療を試みるが、状態が上がらず秋に手術を行なった。術後は肩が動かない状態で痛みもひどく、投げられるようになるイメージは湧かなかった。

 それから1年間はリハビリのため野球部を休部。永遠とも思えるような厳しくつらい時間を過ごすことになる。投手として生命線の右肩の負傷。相次ぐ厳しい仕打ちに吉永さんの心は折れなかったのだろうか。

「たとえば高校時代の冬合宿だったり、これまでつらい経験をたくさんしてきました。そこで気持ちの保ち方は培ってきたので、心折れることなく精神をコントロールすることができたと思います。頑張りすぎないようにって」

 吉永さんから「とにかく野球が好きだ」という想いがにじみ出る。

「あとは高校の時に日本一になり、大舞台に立ち、大歓声の前でプレーできた経験はすごく大きかったと思います。もう一度ああいった舞台で野球がしたいという思いが強かったですし、優勝の経験がなかったらちょっと頑張れなかったかもしれませんね」

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