昭和、平成、令和...親子三代で甲子園出場を果たした「智辯和歌山・高嶋家物語」 (2ページ目)

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro
  • photo by Kyodo News

「開会式の入場行進にとにかく感動したんです。雨天練習場から球場内に入ったら、どこを見えてもお客さんがいる。ほんまに辞めんでよかったと感動して、足がブルブル震えてね。『また絶対に帰ってくる。将来も指導者になって帰ってくる』と心に決めました。そこから甲子園に取り憑かれてしもうたんやから、ほんま魔物ですよ」

 記念大会のため出場校が多く、大宮(埼玉)との試合は甲子園ではなく西宮球場で行なわれたが1対7と完敗。副キャプテンとして連続出場を果たした翌夏も、1番・センターで甲子園初安打を放ったが、早鞆(山口)に2対10と敗れ、勝利を味わうことはできなかった。

「ヒット? 覚えてないなぁ。それより外野を走り回った記憶ばかり。ベンチに戻ったら水を飲む暇もなく、すぐに守りにいって......試合した記憶よりも、そんな記憶しか残ってない(笑)」

 そこから17年、智辯学園から移った智辯和歌山で監督となった。そして就任から12年目の1991年夏、仁と親子鷹として甲子園の土を踏んだのが息子の茂雄だ。

 仁が今もなお感謝してやまない母の名前(茂子)と、憧れの長嶋茂雄からとって命名した高嶋家の長男。その茂雄にもかつて話を聞いたことがあった。

 自身は子どもの頃からチームに入って野球をやりたかったが、ほかのスポーツも経験しておいたほうがいいという仁の意向で、本格的に野球を始めたのは中学から。そこから必死で練習に励み、高校は覚悟を決めて父が監督を務める智辯和歌山へ進学した。

 普段は温厚で、怒られた経験も数えるほどだった父だが、グラウンドでは別人だった。三塁を守っていた茂雄はほかの選手同様、ノックで徹底的に攻められた。父が打つボールを難なくさばけるようにならないと試合で使ってもらえないと、強烈な打球に必死に食らいついた。

 家に戻ると、父へのダイレクトな感情を思いのまま日記帳に書きなぐり、気を紛らわせた。"鬼監督"との戦いの日々。そんな茂雄の取り組みが結果となって表れたのが高校2年の夏。

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