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廃部寸前からセンバツ出場の奇跡。大崎の監督が思う島民への「恩返し」 (3ページ目)

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro
  • photo by Kyodo News

 清水が大崎高校に来た時、部員は1年生1人、2年生4人の計5人(直後にもうひとり加入)だった。そして翌年"清水監督"となる春に集まったのが、今春卒業した生徒たちだ。

 監督1年目の夏と秋、さらに2年目の夏も初戦コールドで敗れた。2度目の夏が終わった時、清水は当時の主将と副主将に言った。

「もっと厳しくやっていいか」

 これに二人は「勝ちたいから厳しくしてください」「もっと厳しいと思っていました」と返した。清水の噂は聞いていたし、もちろん覚悟もしていた。当時のことを清水はこう振り返る。

「2度目の夏までは、自分のなかにどこか遠慮があったんでしょうね。そこからは、何をするのにも徹底してやることを言い聞かせました。そしたら勝ったんです」

 一気にチーム力が増し、秋の県大会を制した。
 
「ある程度、優しくして勝てなくても仕方ないという考えもあるのかもしれない。でも、コンビニに行くのに自転車で40分走らないといけないところで、寮にはテレビもないし、携帯も1日1時間まで。今の時代にこれだけ我慢して、それでも私を信じて島に来てくれた生徒たちにいい思いをさせてやりたい。それはいつも思ってやっているので、ひとつ結果が出て少しホッとしたのはありました」

 その後の九州大会は初戦で敗れたが、昨年夏に開催された独自大会も優勝。この時はそれまでの思いが蘇り、清水は涙をこらえるのに必死だったという。

「補欠監督」だからできた仙台育英の大改革>>

 そして新チームとなった秋、目標はすぐに決まった。「3年生と一緒に甲子園」だ。引退後も一緒に寮生活を続け、練習も手伝い、部室やトイレ掃除をやってくれる3年生と一緒に甲子園を目指した。

 すると、またしても県大会を制し、九州大会でも頂点に立ち、一気に初の甲子園出場を決めた。清水が大崎の監督となってわずか2年半での鮮やかすぎる結果だった。

 グラウンドでは厳しい清水だが、裏表がなく、叱るポイントも変わらない。だからこそ、選手たちも清水を信頼し、ここまでやってこられたのだろう。

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