「補欠監督」だからできた仙台育英の大改革。保護者の前で「数値重視」を宣言した
【高校時代は「その他大勢」】
仙台育英に憧れ、1999年に埼玉県から単身で仙台にやってきた須江航は高校時代、公式戦はおろか練習試合にも出た経験がない。プレーヤーとして活躍できなかったという事実は永遠に変えられないが、それでも高校時代を「最高の3年間だったと思っています」と振り返る。
しかし、「選手として」という視点で語れることは多くない。
「高校では完全に補欠でした。自分でもなかなかの補欠っぷりだったと思います」
『補欠のミカタ レギュラーになれなかった甲子園監督の言葉』(徳間書店)の中で、須江はそう語っている。
チームに改革をもたらした仙台育英の須江航監督 宮城県内だけでなく、県外、東北以外からも有望選手が入学する強豪校で生き残ることは簡単ではない。中学時代の実績、体の大きさ、身体能力をシビアに判定されて、レギュラーが狙える選手か「その他大勢」に振り分けられる。須江は「その他大勢」に振り分けられ、最後までスポットライトを浴びることはなかった。
「ノックを受けたことも、バッティングケージの中で打撃練習をしたこともありません。見込みのない選手には練習の機会も与えられない。そういう時代でした」
120人から150人もいた部員の中で、メインの練習に参加できるメンバーは30人から40人。選に漏れた80人以上は練習の補助に回ることになる。現在、同校の監督を務める須江からしても、当時のチームの戦力は十分に整っていた。
「今の自分が見たらうらやましいと思うくらい、すごいメンバーが揃っていました。東北では屈指の戦力でしたね」
だから、自分の活躍の場がなかったことに関して異論があるわけではない。ただ、選手としてプレーできなかったこと、まったく実績がないことは、強いコンプレックスとして須江の中に残っている。
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