甲子園に嫌われ続けた大阪桐蔭・西谷監督。
しつこく積み重ねた7度の日本一
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高校野球・名将たちの履歴書
第7回 西谷浩一(大阪桐蔭)
松山商(愛媛)と三沢高(青森)が、夏の甲子園で史上初(当時)の決勝再試合が行なわれた1969年。球史に残る名勝負の余韻がまだ残る9月半ば、西谷浩一は兵庫県宝塚市に生まれた。
小学校から野球を始めると、部屋には掛布雅之のポスターを貼り、甲子園球場で行なわれる阪神戦にも電車を乗り継いでよく通った。
少年野球チームでのポジションはキャッチャー。現在の体格からすれば、すんなり納得......というところだが、少年時代は標準体型だった。当時の指導者がどこを見抜いて西谷をキャッチャーで起用したのかはわからないが、采配や指導から垣間見る視野の広さやマメさ、高いコミュニケーション能力を鑑みれば、至極納得がいく。
これまで7度の全国制覇を誇る大阪桐蔭・西谷監督 西谷のなかで、甲子園の主役が阪神タイガースから高校野球に代わったのは小学校5年の夏。地元・兵庫代表の報徳学園が「エースで4番」の金村義明の大車輪の活躍で全国制覇。「あのユニフォームを着て、甲子園に行きたい!」と心は決まった。
以来、放課後に自転車を飛ばして報徳学園の練習を見に行く日々を送り、1985年にその思いを貫き入学を果たした。
技量的に際立つ選手ではなかったが、当時の同級生は西谷に対して強く印象に残っていることがある。それは西谷の野球に取り組む姿勢だ。以前、当時のチームメイトに西谷について話を聞いたことがある。
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