甲子園に嫌われ続けた大阪桐蔭・西谷監督。しつこく積み重ねた7度の日本一 (2ページ目)

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro
  • photo by Ohtomo Yoshiyuki

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「夜9時まで全体練習があれば10時までグラウンドにいて、朝7時から練習が始まるとすると6時には来ている。とにかく誰よりも長くグラウンドにいたのが西谷でした。卒業アルバムの西谷の顔写真の下に、誰かが"今日もハッスル。練習マシーン"って書いていたのを覚えていますけど、本当に真面目で練習の虫でしたね」

 ただ、夢を抱いていた高校野球生活は2年秋の近畿大会出場(初戦敗退)が唯一の戦績らしい戦績で、「3年間のうち半分は試合ができない感じだった」(西谷)という。部員の不祥事が続き、最後の夏も下級生が起こした不祥事により大会の出場を辞退。兵庫大会開幕の日の紅白戦が、高校最後の試合となった。

 進路もすんなり決まらないなか、「野球を続けるなら関西大の練習に参加してみるか」と声をかけてくれたのが、のちに大阪桐蔭の初代監督を務める長澤和雄だった。

 関大野球部OBで、現役時代は日本代表の主軸を務めた経験もある長澤は、当時、スポーツメーカーであるSSKの営業をしていた。報徳の野球部も担当しており、西谷たちは長澤のことを「SSKのおっちゃん」と呼び、なんでも気軽に話せる間柄だった。

 長澤から誘いを受けた西谷は関大の練習に参加。当日はバッティングも守備も好調で、西谷のなかで「ここでやりたい!」との思いが広がった。しかし、アピールを続けた練習が終わると、マネージャーから「じゃあ、西谷くん頑張って」とA4サイズの茶封筒を渡された。中を見ると、赤本(過去の入試問題集)が一冊だけ入っていた。一瞬、意味がわからなかったが、ハッと気づき「不合格ですか」と尋ねると、マネージャーはこう説明してきた。

「そうじゃなくて、うちの野球部にはスポーツ推薦がない(当時)。だから、たとえ桑田真澄や清原和博が来たくても、勉強して入ってもらうしかないんや」

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