甲子園で773球→投手生命に終止符。大野倫は強打者としてプロへ進んだ
「悲運のエース」が沖縄から見つめる高校野球の未来(中編)
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1990年夏の甲子園決勝進出で、県民の沖縄水産への期待感はさらに高まった。新チームになりエースとなった大野倫は、プレッシャーも感じながら野球に打ち込んだ。
「安定感はなかったのですが、背番号1を背負ってから責任感が出て、ピッチングは劇的によくなりました。(先輩の)神谷(善治)さんの甲子園での投球をイメージして、インサイドにシュートを投げ込んだり、フォークを覚えたりして、ストレート一辺倒で押し切るタイプから投球に幅が出てきたんです。投げ込みの量は増えました。新チームになってから、多い時で1日400球、平均でも150球から200球は投げていました」
ひじの痛みに耐えながらも甲子園の6試合をひとりで投げ抜いた大野倫 新チームとなった1990年の秋は、九州大会の1回戦で延長14回の末に鹿児島実業に敗れ、センバツ出場は逃した。
「(年が明け)春のシーズンが始まってからは、ダブルヘッダーでもひとりで投げました。むしろ、試合のほうが1日の球数は減ったぐらいですね。栽(弘義)先生からは気が緩むと手が飛んできました。当時は普通でしたし、そういう環境なんだと思っていました」
大野は4月に熊本に遠征し、鎮西高とのダブルヘッダーをひとりで投げきり、球速は自己最速となる145キロをマークした。しかしその後、ゴールデンウィーク期間中の練習でボールを投げた時、右ひじから「ブチッ」という音が聞こえた。
「あっ、やってしまった。ひじがぶっ飛んだと思いました。それまでと痛みの種類が違って、この痛みだけはどうにもならないと......。でも、大会まで1カ月ぐらいしかなかったので、何とかして乗り切るしかないなと思っていました」
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