広島商は「伝統×今の野球」で復活。個性重視で機動力に強打が加わった

  • 井上幸太●文 text by Inoue Kota
  • photo by Inoue Kota

「十年一昔」という言葉がしばしば使われる。目まぐるしく変化する世のなかにおいて、10年もの歳月が経つと、状況は大きく変わるという意味合いだ。

 その10年を上回る15年。通算43回の甲子園出場を誇り、春1度、夏6度頂点に立った名門・広島商が甲子園を逃し続けたことは、"低迷"と評されるのに十分な空白だった。

 かつては「春の広陵、夏の広商」と呼ばれ、広島の高校野球界の覇権を争ったライバルの広陵に水を開けられ、さらに広島商OBの迫田守昭監督率いる広島新庄も台頭。15年の間に「新2強」の形成を許す格好となっていた。

広島商を15年ぶりの甲子園に導いた荒谷忠勝監督(写真中央)広島商を15年ぶりの甲子園に導いた荒谷忠勝監督(写真中央) 今夏チームを15年ぶりの栄冠に導いた荒谷忠勝(あらたに・ただかつ)は、「この15年間すべて母校にいたわけではありませんが」と前置きした上で、広島大会決勝のあと、こう答えた。

「11年間は他校にいて、(甲子園から遠ざかった)15年間のすべてを知っているわけではありません。それでも15年という時間は長かったと感じます。選手、指導者どちらとも初出場に近い感覚になる。それほどの期間だと思います」

 広島商の監督としての初采配は、昨夏の県大会。春季県大会終了後に部内暴力が発覚し、夏の県大会開幕直前まで対外試合禁止の処分が下された。その処分を受けて、代理監督という形で采配を振るった。

 実戦感覚が乏しいという大きなハンデを抱えながらもベスト4進出。なんとか名門の威信をつなぎ止め、夏の大会後の8月1日付で正式に監督を引き継いだ。

 自身も1995年卒業のOB。少年時代は「高校野球に大きな関心があったわけではなかった」と言う荒谷だったが、小学6年の夏(1988年)に見た、故・川本幸生監督率いる広島商の全国制覇に魂を揺さぶられた。念願叶って進学し、選手としても1994年春のセンバツに出場。高校3年の夏は、県大会決勝で山陽の前に敗退。この敗退が高校野球の指導者を志すきっかけとなった。

 前回出場の2004年の夏、エース岩本貴裕(現・広島)が軸のチームを副部長として陰ながら支えていた。

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