神前俊彦63歳。高校野球に憑りつかれた男が目指す2度目の甲子園 (2ページ目)

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro
  • photo by Tanigami Shiro

 それから先は、社業のなかにも「あの夏に味わった達成感や感動があるはず」と、企業人として人生をまっとうするはずだった。ところが15年が過ぎた頃、「あれ以上のものはない」と悟ってしまったのだ。1997年に母校の監督に復帰し、再び"二足のわらじ"を履いた。

 その後、岡山へ転勤になった時もあったが、金曜日の夜に新幹線で大阪に入り、土日に指導して、日曜日の夜に岡山へ戻るという執念の生活で乗り切った。1年半後に大阪に戻ったが、さまざまな制約の多い公立校の野球部を率いて、激戦区・大阪の頂点を目指し挑み続けてきた。

「もう少し時間があれば、力のある選手がいれば、設備が整っていれば......勝てない理由を探してボヤくなら、やらんほうがまし。人、モノ、お金、グラウンド、時間......ないないづくしを、あるあるづくしに変えていかなあかんのよ」

 春日丘時代によく聞いた言葉だ。練習時間確保のため、グラウンド内のダッシュや着替え時間の短縮を徹底。狭いスペースに折り畳み式の鳥かご(ケージ)を含め、最大8カ所で打てるように工夫したフリー打撃や、選手がノッカーとなり一斉に行なうノックなど、春日丘のグラウンドには知恵と工夫が詰まっていた。「使える」と思ったものは、迷わず取り入れ、試すのが"神前流"だ。

 練習が休みになる試験期間中に有給休暇を充て、全国の高校を訪ね歩いた。駒大苫小牧、八重山商工、興南、清峰、佐賀北、帝京......。また、毎年2月にはプロ野球のキャンプ地を回り、ある年はアメリカに渡ってメジャーキャンプ巡りまで敢行した。ビデオカメラに収めた各チームの練習法を持ち帰り、選手たちと何度も見返しながら興味のあるものは即メニューに取り入れた。

「所詮マネやないかという人もいるけど、ここまでネタを仕入れる気がありますか、と。2つならマネごとでも、3つやったらオリジナル。これが私の持論です」

 ところが再登板から17年が過ぎた201412月、神前は再び春日丘を去ることになった。もちろん自ら望んだものではなかったが、今の時代、とくに公立校の部活における外部監督の難しさが絡んだ結果でもあった。じつはこの時、残りの人生を高校野球の監督として過ごす覚悟を決め、すでに早期退職で会社を離れていたのだ。

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