沖水の栽弘義から学んだ上原忠。やがてふたりはライバル関係となった (2ページ目)

  • 石田雄太●文 text by Ishida Yuta
  • photo by Kyodo News

「いいか、あのランナーの動き見てろよ、あれじゃ、アウトになるぞ」

「見てみろ、この守備位置じゃダメだろ、なぜだかわかるか」

「アイツは何も考えてないから、次も同じボールに手を出すぞ、ほーらな」

 栽監督はそうして上原に野球を教えた。いや、教えるつもりがあったのかどうかも、栽監督亡き今となっては確かめる術もない。同郷の、しかも中学の監督だからと、いつしか愚痴をこぼすストレス解消の相手になっていただけなのかもしれないと、上原は苦笑いを浮かべる。

「でも、僕はそれをすべて吸収しました。栽先生のマネをして、中学生に合わないと思ったらアレンジする。僕みたいに何にも持っていない指導者が無から有をつくるというのは大変なことなんですけど、マネしたものをベースに、省いて、加えて、減らしたりしているうちに、それをオリジナルにすることはできる。僕は栽先生の野球を盗んで、それを中学生の軟式野球に合うようにアレンジしながらオリジナルをつくり上げたんです。戦術、練習方法、愚痴のこぼし方まで(笑)」

 与那原中で6年、長嶺中で6年。12年の間、上原監督はチームを何度も九州大会へ導き、やがては中体連(中学体育連盟)の野球専門部長になった。栽監督にとっても上原から得られる有力な中学生の情報は貴重だったはずで、栽野球を叩き込んだかわいい後輩にまさか、やがて甲子園への道を断たれることになるとは、この時点では想像もしなかったに違いない。

ずっと高校への異動を希望していたものの、中学から高校へ移るのは「宝くじに当たるより難しい」(上原)仕組みになっていた沖縄で、上原は1998年に長嶺中から中部商へ転勤することになる。つまり、栽監督の沖縄水産と、高校野球の舞台で相まみえるライバルとなったのである。

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