大谷翔平の兄が都市対抗出場。苦難の野球人生からドームの主役になる (2ページ目)
一般受験で入った前沢高校では、主に3番を担った。高校最後の夏は3勝したが、甲子園は程遠かった。その年、2005年夏の岩手を制したのは、就任間もない佐々木洋(ひろし)監督が率いる花巻東である。もしも、その県優勝校に進学していたら......。高校選びで「花巻東の話がなかったわけではなかった」と言う大谷は、苦笑いを浮かべてこう語るのだ。
「もう少し早く佐々木監督と出会っていたかもしれませんね」
いずれにせよ、全国とは無縁だった高校時代を経て、卒業後の大谷は地元企業へ就職した。
「まだまだ、自分はできる」
その思いに突き動かされて、工場勤務の傍ら、水沢市(現・奥州市)を拠点に活動するクラブチームの水沢駒形野球倶楽部で野球を続けた。
「クラブチームでやっていたときは、企業チームから引き抜かれるぐらいの選手になろうと思ってやっていました。でも、なかなか思うような練習もできない環境だった。『もうちょっとできるんじゃないか......』という思いがあるなかで、ちょうど独立リーグの存在を知って応募してみようと思いました」
自分の可能性を信じた大谷は、四国アイランドリーグの高知ファイティングドッグスに自身の野球人生をかけた。高校卒業から丸3年が過ぎた頃である。
当時を思い出しながら、大谷はこう語るのだ。
「四国へ行ったときは、プロをイメージしていました。プロ野球は小さい頃からの夢。実力はなかったんですけど、やるからには上を目指したいと思っていました。でも正直、高校までは野球を本格的に教わったことがなくて、独学みたいなところがありましたからね。四国では、1年目から試合で使ってもらっていましたが、毎日のように監督やコーチに怒られていましたね」
結局、高知ファイティングドッグスでは2年間プレーした。大谷自身は3年目も契約するつもりだった。ただ、ちょうどそのとき、地元・岩手で新たに動き出そうとしていた企業チームへの誘いがあった。
「1カ月ぐらい悩みました。でも、社会人野球における企業チームが少なくなっているなか、新たなチームで野球をやってみたい。しかも、地元のチームということで、お世話になろうと思いました」
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