「母」は元プロ野球選手。履正社を強豪校に育てた岡田監督の意外な過去 (5ページ目)

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro
  • 大友良行●写真 photo by Ohtomo Yoshiyuki

「5打数5安打でも、試合に負けたらキャプテンが殴られる。毎日、すごい矛盾を感じていましたし、当時は本当に嫌いでしたね。いつもノックを受けながら、今日こそ(監督やコーチに)ボールを当てたると思っていましたから(笑)」

 しかし、そんな鬱々とした思いを一瞬にして変えてくれたのが、3年の春に1番・サードで出場した甲子園だった。東洋大姫路は修徳、大分商、池田を破り、準決勝で牛島和彦、香川伸行の浪商(現・大体大浪商)に敗れるも堂々のベスト4。グラウンドで感じた高揚感はそれまでに味わったことのないものだった。

「甲子園はホント楽しかった。それまで『野球って、こんな面白くないものなんか』って毎日思っていたのに、あの10日足らずで『野球ってこんなに楽しかったんや』ってなりましたから。それがやっぱり甲子園の魅力で、厳しい練習をやったおかげで気づくことができました」

 最後の夏は市立尼崎に準々決勝で敗れて高校生活を終えると、日体大に進み教員免許を取得した。社会人の鷺宮製作所で現役を終えたあと、大阪の公立校・桜宮のコーチとして指導者生活をスタート。次に移った学校の校名が福島商業から履正社となった4年目、岡田は監督となった。1986年のことだった。

 今から30年前の履正社の野球部は、監督不在で同好会レベル。部員は元陸上部、元卓球部、元体操部の3人を加えても11人しかいなかった。ところが、それからしばらくして、各大会で初戦敗退を繰り返していた弱小チームが変わり始める。厳しくチームを鍛え上げていった岡田の指導の肝となっていたのは、母や中学時代、高校時代の指導者から学んだ"徹底"だった。自らの成功体験も大きな支えとなり、岡田監督率いる履正社は強豪への階段をゆっくり登り始めていった。

後編へつづく

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