消えゆくPL学園野球部。そのDNAは遠く秋田で芽吹いていた (5ページ目)

  • 菊地高弘●文・写真 text&photo by Kikuchi Takahiro

 だが、明桜と名前の変わった近年は、県大会で上位進出してもベスト8より上に進めず、毎年のように監督が交代するなど、不安定なチーム状況が続いていた。昨秋は県大会にすら進めず、地区予選で敗退している。

 そして秋が終わると、西野は部長に就任する。まず取り掛かったのは技術のことではなく、生活面のことだった。

「野球は生活の流れのなかにある、ひとつのこと。日々の生活の乱れを見直さないといけないと感じていました。学習面が疎(おろそ)かになれば、野球に出ます。それまでも疎かにしていたつもりはありませんが、秋以降は特に細かく指導するようになりました。食事、睡眠、練習のバランスをしっかりと満たしてやらないと、効果が薄いと思ったんです」

 この考えは、自身の高校時代がある意味で反面教師になっている。常に雑用に追われ、睡眠時間が取れず、授業中に睡眠不足を補っていた1年生時代。だが、2年生になると雑用から解放され、生活サイクルが整い、本来の力を発揮できるようになった。生活を見直すことの重要性を、身をもって学んでいたのだ。

 チームの主将である東内凛(とうない・りん)は、こう証言する。

「大会前になると『野球、野球』という感じで、生活面のことを見落としがちでした。その乱れが練習の乱れにつながって、雑なプレーとして野球にも出ていたと思います。西野先生が部長になってから徹底的に生活面を見直すようになりました。それまでは『なんでやらないのかな?』と思うような部員もいて、キャプテンとして『しんどいな……』と思うこともありました。でも、西野先生は諦めずに厳しく指導してくれて、冬から春にかけてチームが少しずつ変わっていきました」

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