消えゆくPL学園野球部。そのDNAは遠く秋田で芽吹いていた (4ページ目)

  • 菊地高弘●文・写真 text&photo by Kikuchi Takahiro

 甲子園で優勝したい。プロに行きたい。そんな高い志を持って、険しい門を叩いてきていたPL学園の選手たち。寮生活でどんなに理不尽があっても「勝つため」「プロに行くため」と思えば、耐えることができた。そんな生活を経て、自分のなかで「当たり前」の基準が高校生としては異常なまでに上がっていたことに気づかされた。そして、西野は悟りを得る。

「ここはPLじゃない」

 そう思えるようになると、今まで意識が低く見えた選手たちが、「野球に対して純粋で、一生懸命やっている」というように見えてきた。そして、狭いグラウンドでも選手ひとりひとりが効率良く練習できるように工夫する、八木利行監督のチーム運営もPL学園時代には学べないことだった。

 その後、西野は三重の津田学園、奈良の関西中央をコーチとして渡り歩き、2015年4月から秋田の明桜へとやってきた。明桜には、PL学園の1期生であり、長年にわたって同校のスカウトとして活動していた井元俊秀氏が在籍していた。「ホームページを見て、採用試験を受けた」という西野は、まずは教員として採用された。

 明桜は2008年夏に甲子園に出場しているものの、高校野球ファンの間では旧校名「秋田経法大付」のほうが通りはいいだろう。1年生ながら甲子園ベスト4に導いた左腕・中川申也(元・阪神)に、超高校級左腕として話題になった小野仁(元・巨人ほか)、他にも攝津正(ソフトバンク)、木村優太(ロッテ)ら好投手を続々と輩出している。

4 / 6

厳選ピックアップ

キーワード

このページのトップに戻る